偽善の海

 車の中で眺める海は、実際に近くで見るより風情があるようだった。彼はリクライニングシートから体を起こし、その場所をじっと見つめる。冬の海は大体において荒れていると聞いていたが、今日に限ってはその荒々しさは陰を潜め、静かに浜辺に打ち寄せるだけだった。ざざぁ、という音すら聞こえてきそうな気がする。少し斜めに傾いだ太陽が光を車に落とし、そのせいで暑かった。

 ちらりと隣を見る。

 助手席に座っている彼の妻は目を閉じていた。すうすうと心地良さそうに寝息を立てて、遊びつかれた子供のような感じを思わせた。暑いと感じるならエアコンを入れようかと思ったのだが、彼女の表情を見る限りそうしなくても良さそうだ。その顔を見てるとどことなく愛しさが沸いてきて、彼は妻の頬を触る。うぅん、と唸って妻がそっぽを向いた。どうやら寝起きは不機嫌らしい。嫌われたな、と苦笑しながら窓の外に目を戻す。

 海は押し寄せては引き上げ、また押し寄せては沖へと戻っていく。行く、戻る、行く、戻る。その繰り返しが彼には面白く思われて、まるで童心に返ったようだった。今までは海を見てもそんな気分を感じたこともなかったので、これまで俺は損をしてきたな、と素直に彼は思った。こんないいものをどうでも良いものとして扱っていたとは、何たるアホさ加減だ。酷いもんだ、全く。

 彼は海から目を外すと、リクライニングシートに体を戻す。狭苦しいはずの車の天井はどういうわけか広く感じられ、手を思い切り伸ばしても届かないようだ。実際に触れてみると天井はそこにあるが、感覚がまるで異なっている。不思議でたまらないのだが、まあそういうこともあるさと彼は割り切ることにした。この世にはもっともっと不思議なことがある。幽霊やら神やら超能力やらそういうものだってあるに違いない。ちょっと広いだけの車の天井なんてどうでもいい範疇に入るだろう。

 暫くの間天井を見つめながらぼうっとしていた。それが何分間だったのか彼の中の体内時計は正常に機能していないらしくよく分からないが、とにかく結構な時間が経っただろうと思ってから、彼は行動を起こすことにした。


 妻と出会ったのはお互い大学生の時分だった。飲み会やサークルなどと言ったよくある交流の機会においてではなく、二人が出会った切っ掛けは図書館でだった。彼は学生というのは酒を飲んで酔っ払うというイメージを持っていたので、後から思い返すとなんとなく照れくさい気分になる。

 大学の図書館ではやたらと態度にうるさい司書たちが勤務しているので、いつも重苦しい雰囲気が立ち込めていた。彼はそんな雰囲気が嫌で嫌でたまらなくて、だから本を読む時には一番奥まった所の隅の席を選んでいたのだ。その日は小説コーナーに置いてあった宮部みゆきの小説を手に取ると、自分の中で決まっていた定位置に向かって歩き出す。今は昼休みで三限を飛ばして四限から授業、なのでかなりの時間の空きがあるし、この時間ならば誰もいないはず。彼はそう思い込み、その場所に行ってから予想外の事態に目を丸くした。

 女の子が一人、彼が座るべき場所に座っていた。椅子に腰掛け背を伸ばし、リラックスした状態で。本に隠れて顔は見えないが、その本は彼もよく知っている舞城王太郎の本だった。タイトルは忘れたが、やたらと長々しい文体だったことと猫殺しの少年が出てきたことは覚えている。一瞬彼はムッとした――人の指定席で勝手に本を読むなんて、なんてふてぶてしい――が、定位置というのは彼が決めたことだし規則があるわけでもないので、文句を言うわけにはいかなかった。せめて顔だけでも確認してやろうと近づいた時、女の子は本を下げた。

 目が合った。

「何か用ですか?」と彼女は首を傾げ、彼をじっと見た。なにせ隣の席よりも近い場所からこっちを見ていたのだから、何か用事があるに違いない、そう女の子が思うのは無理も無かった。まずい、と彼は思った。声をかけられるとは予想外だ。どうしよう。一瞬迷ってから彼は本に目をつけて、「その作家、いつも読んでるの?」と訊ねてみた。

 彼女は文庫本に目を落とし、「これですか?」と言った。そうそれそれ、と若干大きめの声で彼は言い、司書が飛んでこないかと冷や汗を掻いた。

「ええ、好きですよ、この人。変な文章ですしやたら変な描写があるんですけど、それが味があるというか」
 彼女は嬉しそうに話し始め、立ったまま聞くというのもどうなんだろうと彼は思い、椅子を持ってくると彼女の横に腰を下した。一体俺は何をしているんだと思ったのだが、彼女はそんなことは関係無しに喋り捲るのでそのうちどうでも良くなった。

 作家の後は話の流れで、互いの自己紹介になった。彼女はどうやら彼と同学年らしく、受ける授業も同じようなものだったらしい。サークルやゼミが違うため、あまり印象に残らなかったのだろう。ただ、「全然記憶にありませんでした、あはは」と言われた際には悲しいものがあるのでひきつった笑みしか返せなかった。

 それからまた好きな作家やら本やら映画やら授業の話となり、良い感じに話が弾んでいき、だいたい三十分も経った頃に我慢しかねたのか司書が飛んできて注意してきたため、話はそこで切り上げとなった。新しい知り合いが出来たことにちょっと興奮しつつも、彼は手を上げて、じゃあまた授業で、と言った。

 そうですね、また授業で。彼女はそう言い、彼の目が確かなら、それは笑顔のように見えた。
 

 話に聞いた通り、やはり教室で彼女の姿を見かけた。彼はその近くまで行くと、いきなり隣の席というのも難しいものがあるので、一つ後ろの席から声をかけた。
「や、この授業取ってたんだ」

 彼女は彼に驚くこともせず、「そうですよ、この先生やたらと出席重視ですから、ちゃんと出ないと単位取れませんし」と返した。それから先生が来たので、一緒に黙々と授業を受け、ノートを取った。

 それは五限の講義だったので、授業が終わるとお開きとなった。彼は基本的に予定を入れていないタイプなのですぐに帰ろうと思ったのだが、それを彼女に尋ねてみると、どうやら彼女もすぐに帰るらしい。二人とも電車に乗るということなので、駅まで一緒に歩いていった。

 世間話をしながら駅まで向かう途中、夕闇の中で彼女のカバンに付いたキーホルダーに目が行った。小さいウサギのぬいぐるみのようなもので、ぼろぼろに汚れていた。洗濯しても落ちるかどうかは疑問に思える程だ。
「それ何?」と彼が尋ねると、携帯を買った際についてきたストラップで、古くなってしまったのだが捨てるに捨てられない、と聞いた。ふーんと彼は流し、その日は電車の中で別れた。

 次の日から彼女と一緒の科目を受ける時には、一緒に授業を受けるようになった。分からない所を教えてもらったり、聞き逃した箇所を後で見せてもらったり、学友として彼女は非常に優れた存在だったし、また非常に真面目だった。少しダラけていると自覚している彼にとっては頼れる存在であり、よくそれで彼女に笑われた。

 やがて一週間経ち、一ヶ月経ち、彼の中で彼女の存在は大きくなっていった。実を言うとそれまで人を好きになったことが無かったので、これが恋愛感情なのかどうかよく分からなかったのだ。それでも彼女が笑う時にはやたらと恥ずかしくなったし、話をしているととても心地よかった。まるで海の上をリズムよく揺れる船のように彼女との言葉は彼に安心感を齎した。デートこそしていなかったが、これはもしかすれば彼氏彼女の間柄になってもおかしくないのでは、と彼は思った。思ったが、行動には出せなかった。

 彼は悶々と悩み続けたが、彼女にはできるだけそれを知られないようにした。もしも全てが自分の勘違いだったら恥を掻くことになるし、関係も気まずくなるだろう。果たしてどうすればいいのか、勉強に手をつけることもせず机の上でベッドの上でアスファルトの上で彼は悩み、やがて彼女の顔が心の全てを占めるのではないかと思われた頃、彼は実行に移した。

 一緒の授業を受け、もうおなじみとなった帰宅の最中、いつもの帰り道とは違う道に彼は彼女を誘った。そこは少し駅に行くには遠回りになるが、しかし人通りは少ない。彼女は一瞬どうすべきか迷ったが、大人しく彼についてきた。変な警戒心を抱くかどうか内心びくびくしていたのでほっとした。

 既に沈みかけた陽を浴びながら、彼は口には出さず、ただそれを差し出した。ウサギのストラップ、彼女の携帯についている古くなったものと同じ種類だった。驚いた顔をした彼女に、とても恥ずかしい感覚を覚えて何度も言葉をつっかえさせながらも、付き合って下さいと言った。顔を真っ赤にして、全身を汗で濡らしながら。

 彼女は彼とストラップを交互に見て、ぷっと吹き出した。もしや俺は馬鹿げたことをしたのではないかと彼は顔を青ざめさせたが、混乱の極致に陥る前に彼女は「いいよ、分かった。付き合う」と言った。それから腹を抱えて、ストラップを握り締めて心底おかしそうに彼女は笑い出した。彼が当惑するほど彼女は笑い、そして次第には涙まで流した。心配した近所の人が箒を手にしてやってきたほどだ。

 後で理由を尋ねてみると、わざわざ同じ型のストラップを用意した所が妙に行動的で、それが普段とのギャップを際立たせたのだそうだ。

 今でも彼は、その話を思い出す度に赤面する。


 付き合うようになって一ヶ月経ち、一年経ち、やがて大学を卒業する時期になった。彼は経済関係のゼミを選択し、彼女は人文学部に所属していたので、卒論提出などは少し時期が異なっていた。それでも互いに何度か文面を見直したり、スピーチの練習をしたので、なんとか卒業にはこぎつけることができた。もう二人は就職先も決まっていた。彼は営業系、彼女は事務系。ありふれた職種だったが、まあ悪くは無い選択だった。それなりに大きな会社だったし、先輩社員の話を聞くに無茶な残業をさせられるのでもなさそうだった。

 その前から考えてはいたのだが、卒業旅行には韓国に行こうと彼は考えていた。何故韓国かと言えば、日本からは近場だし、食事の金額が安いらしいし、また彼女がDMZ――北朝鮮との国境を分ける非武装地帯だ――を見てみたいと何度も言っていたのだ。あまり金が無いので、アルバイトと倹約でどうにか旅行にこぎつけた。彼女にそれを伝えると大騒ぎして喜び、携帯で連絡したらしくどういうわけかゼミの仲間も巻き込んで飲み会にまで発展した。当然翌朝は二日酔いだった。

 旅行の一日目はホテルに泊まる予定で、ツインルームということで予約はしておいた。予約をした際、この旅行で――、とは思ったものの、それほど本気で考えているわけではなかった。何せ彼はそうした色事については疎いしうぶでもあったし、彼女からそうしたことを誘われたわけではなかったからだ。新潟空港から飛行機で仁川まで行き、ソウルまでバスに乗り、軽くホテル周辺を見回った後に二人はチェックインして、何だかんだしてるうちに夜になり、現地のテレビをぼんやり眺めている間に深夜になった。電気を消して二人は別々のベッドに入った。

 電気を消すまではなんとなく期待はしていたのだが、やはりというか彼女は何も言わずにベッドにもぐりこんだため、ああやっぱりそういう気はないんだな、と判断して、彼は眠ることにした。かちかちと時計の音が聞こえ、外ではマナーが悪い車がクラクションを盛大に鳴らしている。暗闇の中で明日の日程や食事や観光地について考えているうちに、次第に眠気が瞼を閉ざし始めた。

 眠りかけた所で、となりに人の体温を感じたことにびっくりして彼は目を開けた。ゆっくりと振り向くと、彼女が入り込んでいた。もぞもぞと動きながらベッドの中央までやってくるので、自然彼は端に寄ることになる。一体どういうことなのだ、と思いつつも彼は、そうかそういえば今までそういうことしてないもんな、と頭のどこかで考えた。だからこの時に我慢できなくなったのかそれともあまりに朴念仁な彼氏に業を煮やしたのか、彼女が積極的になったということなのだ、きっと。その他に理由が思いつかない。

 彼は興奮と緊張でどきどきしながらも、辛うじて「どうしたの?」と口にした。分かっているくせに、と誰かが言う。
「分かっているくせに」と彼女も言った。興奮しているようでちょっと上ずっていた。

「……どう、しよう、かな」
 彼はどぎまぎしてそれだけしか言えなかった。事実彼はそうする方法なんて知らなかった――知識はAVで得たが、実践なんてしてこなかったのだ。彼女とはいったのがAまでで、そこから先は手を出していない。全く。よく彼女が浮気しなかったな、と今更ながら思った。

「…………女から言わせるの? そういうの」
 彼女も言葉少なにそれだけ言った。彼は暫く考え込んだ。つまりこういうのは男がリードするべきで、女はリードされる立場で、つまりレディファーストで、あれ?

「じゃ、じゃあ! ……し、よう、か」
 頭の中を完全にパニック状態にしつつも、彼はそう言った。顔面が照れで燃え盛っている。ああやってしまった、やってしまった俺は。いやこれからするのか。

 ん、と彼女は頷き、彼に顔を近づけた。闇の中で彼女の顔は普段よりも艶かしく見えて、言い方は悪いけど娼婦のようだった。つまり、娼婦のように人を惑わせる魅力があるということ。よく見ると顔が真っ赤だった。後で聞いたら彼女も初めてだったらしい。

 彼は彼女とキスをした。そしてその夜、二人は初めて結ばれたのだった。彼女の肌が熱く、唇は柔らかく、声は甘かったことを彼は覚えている。

 今になっても、海を目前とした今でさえもそれはずっと忘れられない。


 二人は大学を出て働き始め、実家を出てアパートに移った。まずは資金集め、ということで精一杯働くことにしたのである。けれども二人の時間をおろそかにしないため、彼と彼女は休日は確実に作り、その日だけは何も予定を入れないことをスローガンにした。彼女はより息巻いており、紙に書いて壁に貼っていた程だった。

 それなりに二人はうまくいった。口げんかはしたし仲たがいはしたし、同じ部屋に住んでいるのに冷戦状態、ということもあった。あったが、大体において彼が先に折れ、たまに彼女の方から折れた。そうして仕事をして料理を食べて新聞を見てテレビを見てゲームをして寝る、たまに寝る前にセックスする、という生活を彼と彼女はしていた。要するに、幸せだったのだ、二人は。

 その二人の幸せは、彼女が医者から『癌です』と告げられた瞬間に崩れ落ちた。砂の城が崩れるみたいに、水をかけられてあっというまにドロドロの流体になってしまったような感じだった。職場での健康診断がきっかけだった。他の人とは違う別室に通された彼女は、レントゲンの結果で黒い影が見えましたと暗喩的に医者に言われ、精密検査を受けさせられた。

 後日、この前の医者とは違う、白衣を着た髭面男は彼女に診断結果を教えた――癌だった。患者に配慮してか、何の感情も込めず、無表情に無慈悲に彼はそう告げた。それから彼は今の医学がいかに進歩して癌が治療しやすい病気になっているのかを彼女に事細かに教え、今日の所はご家族と相談してください、と言って事実を押し付けて彼女を帰した。

 帰って来た彼女は最初、自分がどういう状況に置かれているのかも分からなかったらしい。彼が帰ってくるまで彼女は電気もつけず暗闇の中で膝を抱えて窓際に座り込み、畳の目をじっと見つめていた。彼が帰ってきても同じだった。彼が電気をつけ、彼女にどうしたの? と訊ねると、彼女は泣いて彼に抱きついた。

 その頃はよく覚えていない。彼女が彼の体を抱きしめながら泣いていたことと、彼が必死にそれをあやしていたこと、それから彼女が手術室に運び込まれた所しか覚えていない。彼は休憩室に通されながらも、手術室で腹を開かれ体の中をあちこち探られている彼女の姿が見えるかのようだった。彼女は麻酔による闇に包まれながらも、その中でずっと泣いていたと思う。彼はなぐさめてやりたかったのだが、生憎彼はその時彼女の近くにはいなかった。彼女を慰められる人間は体の中の悪魔にしか興味が無いので、誰も彼女自身に手を差し伸べないのだ。

 手術が終わった。髭面の担当医は暫く検査の結果が出るまでお待ち下さいと言って病室から出て行き、彼女の傍に彼は残された。彼女は心なしかやせ衰えた体つきをして、ベッドの上で毛布に包まっていた。彼は彼女の手を握った。温かかったが、生きている人間の手のようには見えなかった。

 何日かしてまたレントゲンを撮り、彼は検査室に呼ばれ、髭面の男から「申し訳ありませんが、既に病巣は転移しています。残念ながら……完治の見込みはありません」と言われるのを黙って聞いていた。聞いた後は記憶が飛び飛びになっている。ガラスが割れる音、髭面の男が頬を押さえている姿、警備員に取り押さえられて絶叫している自分の姿しか彼は思い出せない。が、今はそれでいいのだと思う。あまり辛い思い出は蘇らせない方が良い。

 彼女の意識が戻り、車椅子で外出できるようになったころ、彼は毎日彼女と散歩した。病院の中庭をぐるぐるぐるぐる歩き回り、葉が繁っている様を、太陽の光が満遍なく全ての生き物に降り注ぐ様を、病院で飼っているらしい猫が飼育小屋の中で欠伸をしている様子をじっと見た。彼女は何も言わなかった。自分の辛さとか、もうじき自分が死ぬことだとか、痛みや苦しみや吐き気や頭痛やその他色んな苦痛に耐えたのに成果が何も無いことに対して不満をぶちまけることもせず、ただじっと外の景色を眺めていた。病状を告げられた時とは別人のようで――手術が彼女を変えてしまったみたいだった。

 最初に彼が口を開いた。

「なあ」

「ん?」

「手術さ、成功したってさ」

「へえ、じゃあ私退院じゃん。ラッキー」

「でもさ、他に癌が移ってすげえ広がってるからさ、もう取りようが無いんだってさ」

「あらま」

「困ったよな、ほんと」

「困る困る。まだまだ本を読み足りないってのに。キングとか読みたいのに。新婚旅行もしてないのに」

「……なあ」

「なによ、辛気臭い声だしちゃって」

「泣かないのか? 死にたくないーってさ、叫ばないのか? お前そうしてもいいんじゃないか? 前みたいにさ。俺は、別にお前がそんなことしたって悪く思わないぞ?」

「……泣かないよ。あの時はちょーっと混乱しただけだもん。ちょっぴり、ほんのちょっぴり。それにまだ私生きてるもん。まだ私動いてるし、本読めるし、テレビ見られるし。まだまだ現役さ。会社にはもう行けそうにないけどねー、退職願どうしよう?」

「俺が出すよ。……お前は、強いなあ。俺よりもずっと強い」

「強くないよ。君が弱いの。やーいうんこたれー、あほんだらー、よわむしー」

「アホ言うなこのやろ、…………この、アホ」

「アホですよ。……ここ、誰もいないよ?」

「それ、が、うぇっく、何だよ」

「ほら、膝。埋めてもいいよ? 顔がくっしゃくしゃで紙みたい。さ、来なさい」

「う、うぅく、うう゛ぐ、ひくひょう、ひぐひょう……!」

 彼は最後まで彼女に縋らず、車椅子の後ろで泣いた。どうしてそうしようかと思ったのかはよく分からないが、多分彼女に弱みを見せたくなかったからだと思う。彼女の顔は最後まで見なかったし、彼女も彼の顔を見ようとはしなかった。


 婚姻届、まだ出してないよね。彼女は傍とそう言った。薄くカーテンを開けた病室の中に光が差し込んでいたが、まるで温かみを感じられない。自分自身が人形のようになったようだった。隣でリンゴを剥いていた彼は最初、彼女が何を言っているのか分からなくて首を傾げる。

 癌と告知されてから幾つかの季節が過ぎ、彼女は衰えた。髪が抜けた。体が痩せた。よく吐くようになった。だが彼女の精神はまだ衰えていなく、彼にはむしろそこが辛かった。そんなことを言える彼女の強さが羨ましく、そして自分の弱さが恨めしかった。もっと自分が強くなって彼女を支えてやれたら、彼女の弱さを全て受け止めてやれたら、と何度も思った。思ったが、それをどう実行に移せばいいのか分からなかった。やりようが分からなかった。

 この頃、とみに彼女は昔の話をするようになった。出会った時の事とか、一緒のレストランで彼が水を零した事とか、ライブハウスで彼女のテンションが馬鹿みたいに上がったせいでステージに物を投げつけて場の雰囲気をかき乱した事とか、前戯のキスがやたらと気持ち良いこととか、そういうとりとめのないことをぽつりぽつりと話していた。そうか、と彼は逐次頷き聞き入れた。そうやって過去を思い出す中でそれに思い至ったんだろうか、と彼は思った。婚姻届を出したいなんてことは。

 書類を取り寄せて、彼が書いて彼女がサインした。それで彼女は妻になった。結婚式も何も無い結婚だったが、彼女は満足しているらしく、へへへと笑っていた。彼は彼女の頭を撫でて、妻になった気分はどうだ? と聞いてやった。

 とってもいいですよー、君の奥さんになれてすっごく嬉しいですよー、と彼女は笑顔だった。隣のテーブルには舞城王太郎の本が乗っていて、まだ読んでたのかと彼は嘆息したくなった。彼はとっくにその作者には飽きて別の人間に鞍替えしていたのだ。

 婚姻届を見ている妻は嬉しそうにしていたが、そのうち目を擦りだすと、ふええぇと声を上げて泣き始めた。彼が乗り出すと、妻は思い切り、癌を告知された日のように彼に抱きついて泣き始めた。うう、ぐえぅう、えええええん。まるで子供のような泣き声に彼もつられて泣きそうになったのだけれど、我慢した。我慢してここは、彼女が見せた弱さを受け止めなければならなかった。

 死にたくない、と妻は言った。死にたくないよ、私死にたくない。まだしたいことたくさんあるのに、北海道とか東京とか鹿児島とか行きたい所たくさんあるのに、韓国とかまた行きたいのに、生きたい生きたい生きたい死にたくない。うああああああん。

 黙って彼はそれを聞き、頷いていた。看護婦が一人部屋を覗いたが、二人の様子を見て神妙な顔つきで出て行った。

 彼は胸が張り裂けそうな気分で妻の言葉を聞き、そして泣き声を聞く中で、ある決心が心の容器を満たしていくのを感じ取った。それは決して褒められたことではないけれど、彼にとってそれは最善のことのように思われたのだ。

 妻が泣き止んだころ、彼はそれを提案した。妻は最初それを頑として受け入れようとはしなかった。だが数日経ち、一週間経ち、より痩せ衰え、心が磨り減っていき、やがて疲れ切った面持ちの妻は彼に、本当にいいの、と聞いた。ぼんやりとした顔つきで、どこか目の焦点が合っていなかったが、意識はあった。

 いいともさ。お前は俺の全てだ。彼はそう言って妻を抱きしめた。妻は鼻をすすっていたが、やがて泣き止んだ。


 妻は死ぬ。避けられないことだ。おそらくは癌で、もしくは癌の付属としてついてくる絶望に殺される。彼女は体を極限まで蝕まれ、精神を荒廃させて、消毒液くさい病院のベッドの上で惨めに無様に死んでいく。他の人間と同じように、他の何千人といる癌患者と同じように彼女は死ぬ。避けられない運命だ。

 その様を俺は黙って見ていられるのだろうか? 俺は彼女が苦しみながら死ぬことに耐えられるのか? 人間としての尊厳を徐々に滅ぼされ野犬のようになってしまう彼女を見ることに耐えられるのか? 彼女の遺体を火葬して納骨して一人の生活を送ることに耐えられるのか?

 彼女を失いそれを受け入れ喪失を喪失でなくしながら生きていくことができるのか?

 できるだろう。人間はそういう生き物だ。失うことには慣れている。親を失っても友達を失っても恋人を失ってもいずれ心は傷を塞いで生き延びようとするだろう。それは生存本能の一種だ。誰しもが持っている根本的な生存欲求。

 だが俺はしたくないし大嫌いだそんなことは。俺は妻と一緒にいたい。妻と一緒に生きて妻と一緒に笑って妻と一緒に終わりを迎えたい。そう思って何が悪い、欲しがって何が悪い。

 例え誰に咎められても俺はそれをやり遂げてみせる。妻のために、俺のために、そして俺を取り巻く色々な環境のために。

 これは俺の独りよがりだろうか? これは三文小説にすら出てこないような低俗かつ馬鹿げた考えなのだろうか?

 俺は偽善者なのだろうか?


 それから数日後、彼は車の中で、病院から連れ出した彼女と一緒にここにいる。外を眺めながら、海を見ながら、そして車の中を見やりながら。

 窓には目張りがしてある。全ての隙間は塞いだ。そして後部座席には練炭が乗っている。よくニュースや新聞で流れるあれだ。

 やっぱりやめようよ、と病院着を来た妻は途上、彼にそう言った。心細く、知らない場所に取り残された幼児みたいに見えた。私は確かに長くないけど、あなたはまだ先があるよ。まだ会社だって勤めなきゃいけないしさ。

 会社なら昨日やめてきた、と彼は言い、妻を見て笑った。死ぬ時は一緒だ、癌に罹ったからって癌で死ななきゃいけないって誰が決めた?

 妻は何か言いたそうな顔をしていたが、彼の顔をじっと見ているうちに言葉が詰まったらしくやがて俯き、リクライニングシートの上で横になった。

 両親の顔が浮かぶ。申し訳ない、父さん、母さん。兄貴がうまくやっていくさ。彼女の両親はいない。両方とも事故で死んだ。それから友人の顔が浮かぶ――やれやれ、これが走馬灯か。ごめんな、みんな。今までありがとう。

 妻がうぅんと唸り、目を覚ました。その顔には隈が出来ており、どう見てもこれから元気になりそうな様子には見えない。

「――外。……海、が」

「ああ、海だ。綺麗だな、海。そういえば、一度もお前と一緒に来てないな、ここ」

 妻は黙っていたが、やがて口を開いてこう言った。

「やっぱり、駄目。行って、帰って、置いてって、――――そんなの、やだよぅ……」

 彼は答える代わりに妻の細くなった体を抱きしめた。今にも壊れそうなほどだった。彼の決心は固く、妻でさえも変えられるものではなかった。がっちりとそれは岩のように固く、誰もそれを捻じ曲げられそうにはなかった。

 何も言わなかった。車内は沈黙で満ちて、彼女は泣いていた。泣いていたが、それを声に出さず、すんすんと鼻声だけが妙に大きく聞こえた。

 振り返って海を見た。青かった。何の生き物の気配も見えないそこは、ただただ綺麗だった。

 妻はもう何も言わなかった。


 練炭から吐き出される一酸化炭素に車内が侵食されていく中、彼は妻と手を繋いでいた。固く固く、誰にも離させてたまるものかと思いながらきつく握っていた。

 睡眠薬を飲んだにも関わらず、不思議と意識は冴えていた。どういう状態で死ぬことになるのかはよく分からないが、この分ならそれほど苦しくはないらしい。妻が大きく咳をしたので彼は大丈夫かと声をかけたが、それが聞こえていないらしいようで妻は何度も咳をしている。

 ああ、もう死んでしまうのか。彼はそう思ったのだが、妻は力を振り絞り、こちらを向いた。その手には携帯電話と、ストラップがあった。ウサギの形をしたぬいぐるみみたいなもの。彼にそれを見せる、ぶらぶらと揺れる様を。その目が濁り、終末が近いことを彼に告げる。車の中の生の終わりが近づき朽ち果てることを彼に告げる。彼はそれを受け入れることにした。

「ほら、これ――君から、もらったもの――綺麗で、汚れて、汚れて、……ないし」

「ああ」
 声が篭って聞こえる。

「こん、こんな、に……かわいかったなんて、気付か、なか、た」

 妻は目を閉じて、かくりと脱力してシートに横になった。眠りに落ちたらしい。

 これが最後の言葉になるか。

 彼は妻を思い彼女をすっぽり包み込んだ病魔を呪い、泣いた。


 空が綺麗だった。海も綺麗だった。何もかもが素晴らしかった。

 意識が混濁する。目を開けていられない。頭が歪み海が歪み天井が歪み全てが歪む。波に任せて心地よくなりながら、彼は妻と過ごした半生を思い浮かべていた。

 一秒ずつ、一分ずつ、それをかみ締める。いかに妻と過ごした人生が素敵だったか、素晴らしかったか、かけがえの無いものだったか。彼はそこでようやく、自分が涙を流していることに気付く。気付いて笑った。

 あまりにも短くて儚すぎて脆すぎた生命が今、死ぬらしい。せめて幸せに逝けただろうかと妻を見る。もう動くことの無い体を見て愛しさが沸いてきてもう一度頬を触ったが、今度は身じろぎ一つしなかった。

 窓の向こうを見て、海が動くのを確認する。まだ俺は生きていて、俺は、妻を愛して。

 ずっと、好きだったのだ。これまでもこれからもずっとずっと死んでいる間でさえも。

 だからこうしようと思ったのだ。

 それが偽善でも自己陶酔でも何でも良い。それが良いと思ったから俺はそうしたのだ。そこに未練や後悔は無い。

 窓の向こうの景色は輝いて、海は何もかもを飲み込む生命の源として存在していた。

 不意に頭の骨が外れる感覚がして、彼は闇に落ち込む。そこで妻の顔を見た。彼女の顔は本の表紙に隠れて見えなかったが、笑っていればいいな、と思った。
復路鵜
2008年02月28日(木) 11時21分16秒 公開
■この作品の著作権は復路鵜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 ぷちSS祭り投稿作品。
 ちょっと今までとは違う路線でやってみるかと思い書いた作品なのですが、結末がいつもと同じになってしまいましたくそう!
 彼が妻とのシーンを回想するということで過去の情景を描いてみましたが、効果は果たして出ているのだろうかと疑問に思ったり。
 次らへんもう少し毛色の違う物を出したいと思います。とりあえず結末。

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