電柱とチーク |
一年のうち数日ほど、酒を飲んでもいないのに手足が妙に熱くなり思考がめまぐるしく回転する夜がある。こうした日は夜の初めから「あ、きたな」と分かるもので、それは深夜になっても覚めることが無い。布団に入ってもそれが持続すれば、当然眠るのにも支障を来たす。今日がちょうど、そんな夜だった。 布団の中で寝返りを打つ。手足が熱くて外に出しているが、出せば出したで寒いし戻せば熱い。どうすりゃいいんだよ、と思いながら布団のうえで手を弄ぶ。目を閉じても眠気はやってくるどころか、心臓の鼓動が早くなるばかりだ。徹夜でもしろと神様は言っているんだろうか? 明日も仕事だってのに。 もう一度寝返りを打ち、うつ伏せになる。枕に顔を押し付け壁をじっと見る。そこから睡魔が出てくればありがたかったのだけれど、生憎そんな非科学的なものは出てこなかった。小説や漫画ならありえるかもしれないが、ここはそんなに優しい法則が通用する世界ではない。ここは人が実際に産まれる世界だし、簡単に鶏の首を絞めるみたいに死んでしまう世界だ。寝たきりの老人が己の吐瀉物で窒息する世界、サラリーマンがぽんぽんビルから飛び降り、明日に希望を持つ子供がトラックに轢きつぶされる世界。仮想でも空想でも幻想でもない嫌な世界。 暑苦しい暗闇に埋もれながらも、今朝の光景がフラッシュバックするのを感じる。ああまたか、と思う。仕事中に何度も見たその景色。もう見飽きるほど見て、うんざりしても尚復活する景色。どっか行ってくれよ本当にこれじゃ眠れねえよ。 彼は自転車で通勤をしているのだが、今朝は通勤途中の十字路に人だかりが出来ているのが見えた。会社から程近い場所で、通学途中の学生や同じような境遇のサラリーマンが何かを眺めているように見えた。とは言っても今朝は早めに出勤しなければならない用事があったため、彼はすぐに目を逸らして前方だけに集中した。自転車は思ったよりもバランス感覚に気を使うものであるし障害物も多いため、下手をすればすぐに転げてしまうのだ。 数時間ほど経って外出した際に、もう一度その十字路を通ることになった。彼は人だかりが出来ていたのを思い出し、何があったんだろうと思ってそこを見てみることにした。既にそこにはあれほど大勢いた野次馬たちは見えず、僅かな通行人と電柱が一本、ぽつんと立っているだけだ。 電柱には血がこびりついているのが見えた。 何があったのか分からなくて近づいたが、よく見ると車のスリップ跡があることから事故かもしれない、と彼は思った。学生か会社員がここを通る際、誤って車と激突して電柱に頭突きするハメになった、そんな所だろうか。電柱の血が落ちなかったぐらいだ、現場はそれなりに酷い有様だったに違いない――あの人だかりもそれで分かる。きっと自分が見ていないだけで救急車やらパトカーで賑わっていたのだろう。野次馬たちがどんな目で運ばれる人間を見ていたのかと思うと、不快な思いが脳裏を過ぎる。 また電柱の下には花が置かれていた。花の種類は分からないが、一束程度の量である。それが意味するものを考えていたが、もしかして被害者は死んだのだろうか、と思った。まだ時間はそれほど経っていないが、もう現場で即死していたのなら分かりやすい。気の毒に思った誰かが時間が空いた時、買ってきて置いたのだろうか。それともこれは性質の悪いイタズラで、轢かれた人間は早く死ねばいいと言うメッセージなのだろうか? これは穿ちすぎかもしれないが、彼には判断することができなかった。 いい加減人の目が気になり始めたので立ち上がり、急ごうと歩き始めた。その時音が聞こえた。 果たしてその音が彼にとって何を意味していたのか、今になっても分からない。思えはその音は尋常ではなかった――どこかの狭間から、毒沼の中から湧き出るような気味の悪いもので、心臓が飛び跳ねた。そして不気味で恐ろしく、背筋が冷えた。血のこびりついた電柱、それを見ただけで自分は感化されてしまっただけだ、と思おうとした。しかしそう考えようとしてもあの音の異常さはちっとも緩和されることはないし、彼があの時感じた恐怖感が薄れることもない。 耳に入ったのは、車のエンジン音だった。彼は飛び上がるほど驚いて首を振り向ける。どこにでもあるような軽自動車が十字路に向かって走ってくるところだった。スピードも馬鹿みたいに出してはいないし、彼は息をついて首を戻そうとした際、視界の隅を何かが横切った。 猫だった。どこかの飼い猫なのか野良なのかは分からないが、家の塀をひょいと乗り越えると、車の前にすとんと飛び降りた。車がその地点に到達するのは僅かで、本当に僅かな時間しかなかった。猫は車を見た。車は……猫を見たのだろうか? ドライバーは気付いていたのだろうか? いずれにせよ、猫が気付いたのは間違いない。そして猫は、自分担当の死神を目撃したようにその場に硬直し、一瞬後にはタイヤの前輪に胴体をひき潰されていた。 あ、と声が出た。がたんと車が揺れて、動きがずれたのか後輪は猫を僅かに逸れる。けれども既に猫にとっては致命傷であり、真ん中だけ平たくなった体が地面にへばりついていた。身動きのできない彼がぽかんと立ちすくんでいると、車は少し先で止まってドライバーが下りてきた。長髪の女性だった。長い髪をかき上げながら車の後方にいるらしい――彼の視界からは見えなかった――猫に駆け寄った。 そこで彼女は何を目にしたのだろうか? 何を考えたのだろうか? たった今自分が致命傷を負わせた猫を見て、何を感じたのだろうか? 内臓がはみ出て、目玉すら動かせないほどのショックを受けた生き物。びくんびくんと体を震わせ、断末魔の声を上げる動物。時間はそれほど長いものではなかった。女性は俯きながら車へと歩いてきた。彼は咄嗟に目を逸らして別方向へと歩いた。やがて車のドアが開いて閉まり、あっという間に車は出発して走り去っていった。 猫はその場所に放置されていた。 タイヤに血が付着したのだろう、微かに道路に付着した血液に足が触れないよう気をつけて、彼は猫へと近寄る。どうしてそんなことをしようと思ったのか今でも分からない。下手をすれば彼自身が猫を殺したと言う冤罪を着せられてもおかしくはないというのに。だが彼は猫を見据え、猫の前にしゃがみこみ、タイヤの痕跡が刻印された背中を見つめた。横腹の破れた所から袋のようなものがはみ出ていたが、気持ち悪さは感じなかった。あの電柱の方が余程不気味だった。猫は既に鳴いておらず、それがもう死んだことを如実に告げていた。おそるおそる首を見ると、首輪がしてあった。《チーク》と文字が書いてある。多分こいつの名前はチークなのだろう。 チーク、と呟いて彼は猫の見開かれた瞳を見た。もう何の光も闇も宿していないし宿すことの無い眼球は、ひたすらに空を見上げながら空しさを漂わせていた。何か名前のつかないとてつもない欲望に駆られ、彼はチークの目玉に触れてみた。ぐにん、とゼリーのような感触がした。それを確認すると彼は、一気に疲労感を感じた。どっと、滝のような疲れが押し寄せてきた。たまらずに立ち上がると、彼はよろめきそうな足をどうにか支えて猫から離れる。既に一人か二人が彼に視線を向けていたが、そんなのはどうでも良かった。今はただ、あの猫からできるだけ距離を置きたかった。 最後に振り返ると、チークはぺしゃんこのままだった。人々がその周りに集まり始めていたが、誰も何もしなかった。警察が呼ばれることもなく、救急車が来ることもなく、チークは道路で静かに腐っていくだけだった。 そうしたことがどういうわけか、こんな夜中に思い出されたから気分が悪い。彼は横を向く。ノートパソコンが載っている机を見て、今朝の人だかりと猫を比較する。人々に見られながら死んでいった人間、誰にも無視されたまま(犯人にすらも)無視されて逝った猫。人と猫。猫と人。綺麗に等分されたみたいに分かれている様が逆に気味が悪い。今頃猫はどうなっているだろうか? 誰かが処分したのだろうか? 飼い主が引き取ったのだろうか? もう土葬されたのだろうか? それとも飼い主は変わり者で火葬したいと言い出したのか? 道路にへばりついた血は誰かが処理してくれたのか? 疑問は熱っぽく回転し続ける脳内からいつまでも出てくるが、結論はどこにも見当たらない。まるで悪い夢を見ているようだった。人だかり。花。電柱。血。轢死。女のスルー。《チーク》。目玉。 とうとう彼は布団から起き上がると、体中にしみこんだ怠惰な感覚をゆっくりふるい落とすように伸びをする。すると更に熱は体の中で加速していき、まるでマラソン直前の選手みたいになる。ああ、こりゃ朝まで徹夜だ。仕方なく彼はコーヒーを入れるために台所に向かう。その途中、彼はこう思った。 しばらく俺は、あの目玉の感触を思い出しながら生活することになるんだろう。 |
復路鵜
2008年06月15日(日) 09時26分08秒 公開 ■この作品の著作権は復路鵜さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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