巫女と半獣と乞食、そしてソマン
 きっかけは、上白沢慧音が博麗神社に出向いてきたことだった。ちょうどその時博麗霊夢は縁側に腰掛けており、二杯目のお茶を飲み干した所だった。空は厚い雲に覆われ、今にも落涙するかと思われるほどだった。決して暖かいと言える日でもなかったのだが、習慣のせいかこの時間帯はここでお茶を飲んでいたかった。


「邪魔するぞ」と言って慧音は霊夢の隣に腰を下すと、「土産だ」と真っ白い袋を置いた。袋越しに見える出っ張りから、おそらく食料か何かだろうと推測する。念のため訊ねてみるとやはり予想していた回答が返ってきた。それから慧音は、寒気のせいで白くなった息を吐き出しながら手を擦り合わせる。普段は半そで姿をよく見るが、この季節はやはり寒いためか今は長袖だ。


「それにしてもあんたが来るなんて珍しいわね。普段は里に引っ込んでるし、宴会にもあまり顔を出さないのに。どういう風の吹き回し?」
 霊夢は茶の滓しか残存していない湯のみを置くと、客人に何も出さないのも失礼なので煎餅が入った皿を慧音の隣に寄せる。霊夢は礼儀知らずの黒魔術少女や幼女吸血鬼にはあまり優しくないが、きちんと礼節をわきまえている相手にはそうでもない。特に土産を持ってくる相手に対しては。


 慧音は礼を言うと、煎餅を一枚取って齧る。未だ幻想郷に燻る冬を感じさせる寒風が吹きすさぶ中、その咀嚼音が妙に響く。霊夢は、今日の夕飯を魚料理にするか漬物とご飯で間に合わせるか、あるいは両方使おうかとぼんやり考えていた。家には冷蔵庫なんて気の利いた装置は置いてないからあまり長い間保たせるのは難しいが、それでもいっぺんに全て食べてしまうのはなんとも勿体無い。うーむ、と天を仰ぎながら唸る。冬は食事に余裕がなくなる季節だ、できるだけ問題なしに乗り切りたい。


 やはり今日は漬物だけで間に合わせようか、と決めかけた途端、「話がある」と慧音が口にした。日が差さないせいか慧音の顔が白く見える。


「まああんたは魔理沙じゃないから、無為に時間を潰すために来たわけじゃなさそうねえ。で、何の用事? その顔を見るにあまり良いものじゃなさそうだけど」

 霊夢は慧音を一目見た時から、その表情に刻み込まれた疲労と憔悴を見て取っていた。人よりも遥かに頑健なワーハクタクである彼女がこうも疲れを隠せないのはどういうことなのか。用事というのは結構なものなのだろう。


 不意を突かれたせいか、慧音は暫く口を閉ざしていた。その様子を見るに、本当に話して良いものか図りかねているというよりむしろ、あまりに事態が紛糾しすぎていて最初に何を伝えればいいのか迷っているようだった。霊夢が煎餅を一枚掴んで、ばりぼりと音を立てて食べ、そして手に残った最後の一欠けらを舐め取ってようやく慧音が口を開いた。


「里が妖怪に襲われた」


 おおおおお、と狼の咆哮にも似た音を立てて風が通り抜けて、境内の木が大きく揺さぶられた。箒の先で荒っぽく木をかき乱すような光景をじっと見据えながら、霊夢は慧音の言葉の意味をじっと思案する。だが半獣が吐き出した言葉とそれ本来の意味とを合致させるまでは時間がかかった。


 妖怪が襲う――村を? 面倒な用事だとは予想していたが、まさかこうだとは思わなかった。なにせ平素では、妖怪たちは里で人間たちと穏やかに過ごすかそれとも一切近づかないかのどちらかなのだ。それが、襲う?


「深夜過ぎで、店も全て閉まっていた。新月の晩で、道はほぼ真っ暗だったな。ある時、妖怪たちが里を取り囲む塀を破壊しはじめた。その音自体は聞こえていたが、実際にそれと気付くまでには絶望的なほど時間がかかった。最初なんて、八百屋さんの所の犬が遠吠えしているのかと思ったぐらいだよ。ようやく異変に気付いたのは、人の悲鳴と怒号が聞こえてからだ。


 外に出ると里人たちが妖怪に襲われていた。あれはなんというか、阿鼻叫喚、だったかな。妖怪たちは気が狂ったように大人も子供も老人も遠慮なしに襲い掛かっていた。多分形状や性質からして下級妖怪だったと思う。里を包囲するような知恵を持った奴はいなかったし、人語を解する奴は殆どいなかったからな。塀近くの家は酷かったよ、逃げ出す暇も無かったせいか一家皆殺しもあった。ようやく妖怪退治の人間がおっとり刀で出張ってきた頃には既に被害も相当なものだった。道端に死体とまだ生きてる人とが折り重なって、家が燃えていた――これについては、妖怪の襲撃にまぎれた愉快犯という意見もあるが――それに、空からも悲鳴が聞こえてきた。多分やつらに攫われた人なのだろうと思う。まだ見つかっていないから確証は持てないが。


 火事は延焼して周りの家を焼き始めたから、それを消火する人間と妖怪を退治する人間とがごちゃごちゃに入り乱れていた。頭から色彩が失せて、がむしゃらに私もそれに加わった……混沌と言うべきかな、あれこそ。炎の下で人と妖が争いあっていた、戦いあっていた、殺しあっていた。これまで見た中で最低の光景で、何度も反吐を吐いた。それでも、私はまだ良い方だよ。夫が引き裂かれるのを目の前にした女性なんか、未だに彼を助けなければと思って眼前の人間を死に物狂いで縊り殺そうとする。


 ようやく一通り撃退して被害を確認すると、死傷者は何十人にも及んでいた。住人の割合を考えればかなりの損害だ。私の知り合いも何人か死んだよ。近所の知り合いの子も、呉服屋のおじいさんおばあさん夫婦も、大工の息子も、みんな食われるか刻まれるか焼かれるかしていた。医者は懸命に仕事をしているが、頭や四肢やらに後遺症が残る人間も相当いると思う。本当に、あれこそ地獄だったよ」


 霊夢はとっくに中身の失せた湯のみを手で弄びながら、淡々と紡がれる言葉の糸を手繰っていた。慧音が静かな調子で、悲しみも怒りも憎しみも見せずに語るその様を横目で見つめた。そして事件の不可解さについて考えた。


 妖怪が人を襲うこと。それ自体は自然だ。妖怪は人を食うし、人も妖怪を退治する。年に一人や二人が犠牲になることも幻想郷では当たり前だ。熊や虎に襲われるようなものだから、天災に遭ったと皆が納得する。だが、村を襲撃する? それに普段はばらばらで行動しているだろう妖怪たちが群れを作って、一斉に攻撃するというのは? そうした知恵はどうやって身につけたというのか? 何より幻想郷の賢者が抑止していたバランスを、どうして下級妖怪たちが破ることができたというのか? 時たま森や山の周辺で見かける、猪や狼の亜種みたいな形をした生き物を思い浮かべる。奴らは脳が無いも同然だから、紫みたいな大妖怪が発した号令を破るほどの度胸も、知恵も、あるわけがない。それに里には守護者である慧音がいる。普段通りなら、絶対にそんな無謀で危険で馬鹿げたことを行うはずがない。


「確かに結構な難題ね、それ」
 霊夢は壮絶な音を立てて神社を通り行く風音を耳にしながら、首筋を焦がすちりちりとした火花めいたものを感じていた。それは博麗の巫女で備える警戒心であり、高揚感でもあり、また使命感でもあった。これは自分が動かなければならないと、そう霊夢に確信させるには十分なものだった。この凄惨な異変は博麗の巫女が解決しなければならない。


 慧音が話した事実から依頼の内容は予測していたが、敢えて霊夢は問いかけた。
「で、私に何を頼みたいって?」


「村に来て調査を頼みたい。妖怪たちが何故村を襲ったのか、一体何か理由があったのか、あるとしたらそれは何なのか、突き止めて欲しい。勿論謝礼は出す」


「礼なんていらないわよ、これもまた立派な異変で、巫女は世に憚る異変すべてをとっちめるために存在するんだから。とは言っても、今回のはちょっと血生臭すぎるけどね。――まあ、一応聞いておくけど、内容は?」


 慧音は薄く笑い、その際彼女の桜色の唇が弧を描いた。ぎこちない笑みだったが、それでもまあ笑みと言えた。
「里秘蔵の酒だ。今度の祭りで飲もうと思っていたんだが、この騒ぎで祭り自体おじゃんになってしまったから、暫く用はない。それを進呈するよ」


「それはありがたいわね、最上級の見返りだわ」


 霊夢は立ち上がると尻についた埃を払って、いつも手元に置いているお払い棒と胸元に入れてある札に触れた。用心はするに越したことは無い。湯のみと煎餅はほったらかしにしておいて、出発しかけた途端に思いついたことがあって霊夢は訊ねた。


「それにしても慧音、結構あんた淡白ね。自分が住む村が破壊されたってのに、あまり動揺してるようには見えないけど」


 どう見ても無礼なその疑問を慧音は無表情で受け流し、こう口にした。


「悲しむ分はもう悲しんださ。次は行動を起こす時間だ、そのためにお前の所に来た。そうだろう?」


 淡白というよりタフなだけか、と霊夢は納得した。もう彼女は正気と狂気の間をふらついておらず、自分がやるべき事を見据えているということになる。


 二人が出掛けようとする時刻、遠くの空の中では雲が鳩羽色へと変色していき、不気味で不穏な空気を漂わせ始めていた。





 時刻は既に昼を回っていたが、太陽の日差しは一向に入らず雲がますます厚くなるだけだった。この冬ですっかり馴染んだ突き刺さる冷気に凍えながら空を見上げると、神様が空に雲の形をした蓋でも被せたように一面灰色だった。確か記憶が正しければ昨日も一昨日もこうだった筈だ。いつになったら雲の隙間から太陽が顔を出してくれる気になるのか、霊夢は嘆息する。憂鬱になる事件があったのに天候だけが機嫌よく晴れ渡っていてもそれはそれで苛立つものだが。そんなことを考えているうちに眼下に里が見えてきたため下降する。


 降り立つ直前、霊夢は里の外れで煙が上がっているのを見た。どうやら里人たちが集まって何かを薪代わりにして燃やしているようだが、果たしてそれが何なのか煙に邪魔されてよく見えない。白い煙は濛々と高く空へと上り、雲の中に吸い込まれていくようだった。


「ねえ慧音、あれ何?」
 霊夢はその場に留まると煙を指差し訊ねた。慧音は視線を向けるなり、ああ、と呟いた。


「火葬だ。結構な数の死人が出たからな、……本当なら一人ひとり葬式をしてから燃したいんだが、それだと時間がかかるし、いくら冬でも体が腐ってしまう。だからああいう形でいっぺんにやってるんだ。もうそろそろ打ち止めだと思うが」


 なるほど、と霊夢は頷く。煙の近くを見ると遺族なのか友人なのか、数名ほどしゃがみこんでいるようだった。見ていて気持ちの良い眺めではないので煙に視線を移動させる。あの煙が人を贄として出てきたものだと思うと、肺に石ころを詰められるような心地がした。あまり考えないようにして、里の入り口まで下りる。


 門や周辺には再襲撃に備えて結界が張ってあるらしいので確認してみる。すると確かに高強度の結界が張られており、下級妖怪ぐらいならば迂闊に入り込もうとした途端に感電死してもおかしくはない。最も幽香や紫のような力の強い妖怪にとっては薄い紙で覆ったようなものだが、彼女らがトチ狂ったという話は聞かないからおそらく大丈夫だろう。里を見回った後でそちらにも足を伸ばす必要があるかもしれない。


 慧音に導かれるまま霊夢は見張り番が詰めている入り口から里へと入る。見張り番はそれが原則だというので霊夢の体を身体検査した。――どうやら、少しでも不審な点がある人間は絶対に入れない積りらしい。だが霊夢は大して気にしていなかった。なにせ自分はかの名だたる妖怪たちがこぞって集まる神社で巫女を務めているのだから、変な気を起こす可能性があると思われても仕方が無い。お払い棒や札を没収されるかと思っていたが、どうやらそうはならずそのまま通された。


 慧音は里の人間であるにも関わらず同じように身体検査を受けていたが、これは彼女が妖怪の血を引いているためということだった。なるほど、外界に出て狂気念慮を身に着けて戻ってきてもおかしくない、というわけらしい。慧音は不満げな顔をしていたが特に嫌がる素振りもせず、見張り番に体を触れられるままに任せた。二人は身体検査を無事に終えると、調べても尚あからさまな警戒心を抱いている人間たちの視線に背中を刺されながら里へと入った。


 実際に破壊された現場を見てみると、なるほど慧音の言うことに頷けた。妖怪たちは森の方角から襲撃してきたらしく、その方角にある家は控えめに言って滅茶苦茶だった。壁に大穴が開いているのはまだ良い方で、家自体が半分崩されている所や屋根が丸ごと剥ぎ取られた所、挙句の果てには竜巻でも通過した後みたいに瓦礫と木材の塊となってしまった住宅まであった。未だに全ての区域を片付けたわけではないのか、崩れた家には何人もの人間が取り付いて除去作業を行っていた。何人かの子供が呆然とした面持ちでそれらを見ているが、誰も彼らに注意を払っているようには見えなかった。


 中心部からは少し離れた小さな広場に行くと、そこはさながら野戦病院の姿を呈しており、組み立てられたテント(多分香霖堂から借りてきたか貰ってきたんだろう。あの店主はこんな時に金を取ろうとするほど商売人ではない)の中では人間たちが医師の治療を受けていた。前に里人たちの何人かが永遠亭に通い医学を習っていると聞いたことがあるが、おそらくその人間たちだろう。既に恐慌状態は過ぎ去った後であり、それほど忙しく立ち働いてはいなかった。永琳やその連れの姿が見えないのは、おそらく彼女たちが人間でないからに違いない。テントの中では何人か寝かされており、全員が死んだように動かなかった。中には本当に死んでいるのもいるかもしれないが、まあそれについては考えていても仕方がない。ここでも疑心のまなざしを投げかけられて、霊夢は正直うんざりした。


 テントから視線を逸らし、里人たちの除去作業を眺める。襲撃のあった日から休まず働いているようで疲労困憊の状態でどうにか作業している人間もいれば、地面に敷いたゴザに横になっている人間もいた。その脇では女たちが茶と水を振舞っている。その全員に共通する事項と言えば、顔から生気が抜け落ちている一点に尽きた。


「大分酷いもんねえ……で、妖怪の死体とか残ってる? 見たいんだけど」


 霊夢の問いかけに慧音は首肯して促す。方角からして里の中心部から離れているようだった。


 狭い里だからそれほど距離は無かったのだが、そこまで来ると霊夢は自分がまるで里を出て塵捨て場にやってきたような錯覚を覚えた。その通りは妖怪に襲撃されたわけではないのに建物の状態が悪く、人の姿も見えなかった。ぐずぐずに湿って崩れそうな状態の家々がぽつりぽつりと間隔を置いて立ち並んでおり、外装が剥げて殆ど家としての体裁を為していない所もある。道に汚臭がこびりつき、虫も生き延びられないような冬だというのに蝿の羽音が聞こえた。慧音に訊ねたら、ここは村八分にされた人間が住む所で、中心部とは隔絶されているとのことだった。今では村八分にされた住民らで子供を作っているので、さながら里が二つに分けられているかのようだ。ここの人間達は里長の頼みに乗って(無論謝礼が目当てで)今は死体の後処理に追われているらしい。


 更に進んでいくと、さっきの医療用テントがあったのと同規模の空き地に着く。違うのはそこらへんに汚物と動物の死体が打ち捨ててあることぐらいだ。霊夢が辺りを見回すと、遠くの家の陰で伸ばした髪を埃や泥に汚した子供が霊夢を見ていたが、視線を合わせるとすぐに逃げていった。慧音が声をかけてきたので振り向く。


「こいつだ。他の妖怪は消滅するか逃げるか、原型を留めていないものばかりだからまともなのがそれ一匹だけなんだ。とりあえず、見てくれ」


 慧音の足元には何かを寝かせてあったが、地面にゴザなんて大層なものは敷いておらず直接布切れで覆ってある。レモンと腐肉を混ぜたような悪臭が離れた場所にいても鼻に刺さるのだが、無視して霊夢は布を剥ぎ取った。


 それは一見クラゲのように見えた。霊夢は実際にクラゲというものを見た事が無いが、森近霖之助から図鑑というものを見せてもらった際に海洋生物のページに載っていたそれを発見したことがある。海という名の水の中でぷかぷかと惰性で揺られる柔らかい生き物。目の前の遺骸もそれによく似ていた――巨大な傘の下から伸びる触手には血と肉がへばりつき、口の中に獲物を齧り取るための歯が生えていた点を除けば。また陸上で生活しているためか、図鑑のクラゲよりも少々形が歪で、体の中にも臓器が納まっているかのごとく全体的にがっちりとして見える。見た感じ体の長さは二メートル強ぐらいあった。頭の部分には何かが突き刺さった痕が残っており、穴が開いたそこから紫色の中身が見えたのだが、努力して霊夢は気にしないようにした。その肉塊を眺めていると不意に、アリスの家で食べたレモン汁をかけた鳥のから揚げを思い出す。


 慧音は霊夢の観察する様子が気になるのかじっと覗き込む。霊夢は巫女であって医者ではないのだからなんとも言えないのだが、ひとまずざっと調べてみる。


 頭に損傷一つ、おそらくこれが致命傷。口の部分は嫌な形をしている口腔が見えるのみ、皮や肉を切り取らないと正確な事は分かりそうも無い。触手部分、頭から噴出した血が降りかかったものか獲物の血かは知らないがそれがべっとり。こりゃいっぺんバラさないと駄目かしらねえ、と思い始めた矢先に霊夢は、触手の先に何かが付着しているのを見つけた。自慢ではないが目は良い方で、三百メートル向こうを飛んでいる鳥の種類も見分けられる。様々な角度から観察すると、血の上に小島のように浮いたそれはどうやら鱗粉に似ているようだ。金色で目立つ。というより、これは。


「粉……?」
 霊夢は血みどろの足に付いたそれを眺める。他の足も調べてみると、一粒二粒同じものがついている。慧音にこれについて訊ねかけた途端、後ろから声が聞こえた。


「それ。粉。一昨日見た。粉」


 振り向くと先ほどの子供が突っ立っていた。よく見ると襤褸を着た乞食であることが分かる。霊夢が手にしている触手をじっと見据え、粉、粉、と呟いている。この子は? と目顔で訊ねる霊夢に慧音は捨てられた猫を見る目を子供に向けた。
「この子はすぐそこの家に住んでいる――あそこが家と言えるのかどうかは正直言って怪しいが。名前は無い。親がつけようとしないんだ。私たちは七と呼んでいる、名無しだからな」


「それ。食った。人間。頭。がぶり。投げた。刺さった。死んだ。ぐさ」
 七は無感情に妖怪を見つめながら、それでいて神経質そうに早口で言葉を吐き出している。全身と目玉を絶えず痙攣させ始終こくこくこくこく頷いている様子からもしかしたら、と慧音を見る。彼女は何も言わなかったので霊夢が頭の横で指をくるくる回すと、気まずそうに彼女は首を縦に振った。


 そういうことか。


「この粉だけど、どこで付いたかとか、そういうの分かる? お姉ちゃんたち、それを探しに来たんだけど」


「粉? 粉。……粉、粉」
 七はか細い声で呟き、左手の甲を右手でぼりぼりと掻いたり、上を見たり下を見たり、あらぬ方向に視線を彷徨わせている。その行為に得心やひらめきが見られないので、こりゃ外れかしら、と思い始めた途端に七が声を上げた。


「外……外! あっち! あっち! かけられた。それ。ばっと。騒いだ。突っ込んだ。見てた。逃げた。聞こえた。声。……声!」


 霊夢は七の言葉を頭の中で反芻し……その要領を得ない言葉がもたらす事実に気付いた。この子は襲撃があった日の夜、里の外にいたのだろう。理由は分からないが、親に殴られたとか蹴られたとかそういう理由に違いない。そんな時、この粉が妖怪たちに振り掛けられ、そして妖怪たちが村に突っ込んでいったのを見た――つまり。


「この粉が妖怪たちを凶暴化させ、しかもそれが人為的、ってことになるかしらね」
 霊夢が言うと、そう! そう! と意味が分かっているのか分かっていないのか、興奮しきって今にも辺りを駆け回りそうな様子で七が賛同した。彼女の言葉は嘘に聞こえないし、今の所他に手がかりがない以上信じてみる価値はある、と霊夢は思った。どうせ外れだったら最初からやり直せばいいのだ。


 霊夢はその粉を持っていた人物について訊ねてみたが、暗くてよく見えなかったらしいく首を横にぶんぶんと勢い良く振るだけだった。まあ、発見されて殺されなかっただけでも上出来だろう。


 そこでふと疑念に思ったことがあるので、それを訊ねてみる。


「あんた、それ他の大人たちに言ったの?」


「言わない。あいつら投げる。酒。石。当たる。ごつん。痛い。死ね。あいつら死ね。慧音良い人。おにぎりくれる。本くれる。慧音連れてきた。良い人。言う」


 そういうこと、と頷きつつも、こんな子供にもきちんと構っている慧音をちょっと尊敬した。おそらく自分だったらこんな子供を見つけたら石を投げる段階までは行かないまでも、家に近寄らせようとはしない。居ついたら邪魔だし何をするか分からないからだ。神社の前で動物の死体でも解体しはじめたらたまらない。


「それじゃ、ちょっとそれを見た場所まで案内してくれる? 案内。分かる?」


「アンナイ? ……アンナイ、ナイ、…………見る? 見たい?」


「そうそうそういうこと」


「こっち。遠い」


 七はすたすたと後ろも振り返らずに歩き出したので、霊夢はその後ろをついていく。慧音も妖怪の死体に布を被せると、霊夢の隣に並んで歩き出した。後で妖怪の死体をどうするのだろうと霊夢は疑問に思ったが、どうせ火葬か埋葬かそれとも蛆虫に食わせるだけだろうと思い、それっきり思考から締め出した。





 里の外れ、外と内を隔てる壁の場所までやってくると、七はおもむろにしゃがみこんで足元の大きな石を持ち上げた。するとそこには女子供なら這えば通れるぐらいの穴がぽっかりと空いており、しかも霊夢が見たところそこに結界が張られていなかった――急ごしらえで防衛措置を取ったものだからこんな見逃しをするのねえ、と首を振る。妖怪どもは目端が利くから、これだったらいとも容易く再襲撃は可能だろう。


 先に抜けた七に手を引っ張られながら外に出て、とりあえず即席で結界を張っておく。後で里人は二人がいなくなったことについて騒ぎ出すかもしれないが、とりあえず今はこちらを優先させよう。どうせ彼らはそこまで期待していないし、むしろ疑っているのだ。


 そこから森までは里をぐるりと回り、おおよそ村八分の小集落とは反対側だった。中心部に人々が集まっているせいか声は聞こえない。七の慣れた様子を見るに、何回も何十回もあそこから外に出ているのだろう。きっと外に出た彼女は森を走り回ったり、近くを通る小川で魚を捕まえたり、時折里の近くを飛び交う妖怪を眺めているのだろう。少なくともそれは、あそこにいる時よりも七にとって遥かに好ましいことなのだろう。しかし今の七はどこか上の空と言った様子で森を見ていた。夢遊病者の口調で七はしきりに単語を吐き出す。


「汚い。浮いてる。臭い。森。汚い。違う」


 汚い――? 霊夢はつられて森を眺めたが、微かに通常とは違うような違和感を覚えるぐらいで、外からでは中の様子を看破できない。いつもここに入り浸っている七だからこそ感じ取れるものがあるのだろう……それか、七の感覚が霊夢には想像できない程度に狂っているのか。


 とりあえずは、粉の調査やそれを妖怪達に振舞った人物を調べるにしても、森に直接足を踏み入れて調査しなければならないだろう。空からの俯瞰では遠すぎるし大雑把すぎて無理だ。これから入るけど大丈夫? と七に問いかけると、少し逡巡したが彼女はこくりと頷き、霊夢の先導で三人は森を進み始めた。七は慧音の服の裾をしっかりと掴み、霊夢が先を行く。最初の樹木の間を越える時、微かな悪寒を覚えた。妖怪が飛び出した際に備えてお払い棒を掴む。


 森の中は陰湿で薄暗くそして異様だった。平常の魔法の森でさえ人を惑わす魔力が木々の間を漂っているが、今日に限ってそれは段違いどころではなく次元が違っていた。直接肌で感じられるほど禍々しい空気を帯びた森は理性ある生き物の侵入を拒んでいるようにも見えた。森の木々は何やら気分が悪くなる臭いを発し、遠くでは獣同士が争う唸り声が聞こえてくる。更に進むと森はその背丈をいよいよ高くし、まるで木々の全てがこちらに覆いかぶさる圧迫感を覚えた。それかもしくは、犠牲者を迷わせて隙あらば飲み込んでやろうという悪意。硫黄よりも尚強く鼻腔を侵す異臭のために鼻を覆いながら、霊夢は慧音を見た――ここ、おかしくなってるわよ。慧音も見返したが、その顔には困惑が滲んでいるだけだった。


 少し経ってから気付いたが、妖精の姿がどこにも見えなかった。妖精は幻想郷の全土に生息しており、それはここ魔法の森でも同じことだ。尤も陰気だったり汚らしい場所ではその数を減らすからここでの個体数が少ないのは当然だ……しかし、一匹もいないのはどう考えてもおかしい。上空を飛びまわってもいない。妖精とは自然現象が形を備えたものだ。それが一匹も姿を現さないのはどういうことなのか? 森が妖精を追い出した? 


 それとも、妖精が森を見限ったのか?


 奥に進むにつれて森の暗闇は強くなり、獣の声も多くなっていった。今ではそこら中から発せられる猿のような鳴き声が耳に入りこんでくる。木々の洞から大量の錆色の蟲が姿を現し土の中に消え、草葉にはよく分からない液体が付着している。あちこちから笑い声とも泣き声ともつかない音が響くが、それが人間のものである可能性は絶対にない。ふと振り返ると七が触ろうとしていたので、霊夢は咄嗟に腕を掴んだ。どうしてか分からないが、それは生身の人間が触れるにはとても危険なような気がしたのだ。よくよく見ると、液体が付着した箇所は変色してじわじわ音を立てている。もしも触れればそこに穴が開くかもしれないし、そこから得体の知れない菌が入るかもしれなかった。


 十分に周囲を警戒しながら三人は進む、ざくりざくりと土を踏み込み、草を掻き分けて。だいぶ森の様子は変わってしまっているが、この辺りは魔理沙の家に近いんじゃないか、と霊夢は推測した。アリスの家は湖側で里からは近いので、これほど奥まった場所にあるのは魔理沙の家ぐらいしかない。


 しかし彼女はどうなのだろう? あの魔法使いが自分の陣地の変貌に気付かないわけがない。もし知っていたら自力で解決しようとするか、もしくは神社で愚痴でも零しながら霊夢を誘おうとする筈だ。だが彼女はここ最近神社には来ていない。それを言うなら一週間か二週間ぐらい霊夢は魔理沙を見ていない。それを自覚した時、心臓を万力で締め付けられる感覚を、とても嫌な感触を覚えた。冬なのに顔を伝う汗を拭う。一瞬魔理沙の変わり果てた姿が脳裏を過ぎったが、霊夢は手の甲を抓ってその映像をかき消した。


「こりゃ、下手したら複数回に分けて探索する必要があるわね」
 嫌な思考をかき消すために霊夢は口に零しながら、視界を塞ぐ枝を無造作に押しのける。そこでぴたりと動きを止めた。枝に、正確に言えば枝に付着しているものが霊夢の興味を惹いたのだ。


 仔細に眺めてみれば、それは先ほどの妖怪の足に見た物と同じ金色の代物だった。日が経っても消滅どころか劣化すらしない性質らしく、それは光を放ちながら枝に張り付いていた。幾つか集まっており葉の上で自己主張を繰り返す。念のため七にも確認してみると、自分が見たものと同じらしく「粉。これ。粉」と言った。霊夢の中で一つの思考が形作られ、建築物として出来上がろうとしていた。アウトライン、構造設備設計、建築施行。工程は刹那の間に済ませられた。完成形は彼女の心に大きな影と僅かな恐怖心を落とした。それを一目見た途端、意匠が持つ得体の知れない不気味さを感知し霊夢は息を詰まらせた。ねじくれた尖塔が、病的な色彩が、曖昧な構造が、全てが心の中で異彩を放つ。


 もしかすれば、魔理沙はこの魔法の森の異変に巻き込まれたのではなく、むしろ森を巻き込んだのではないか?


 この粉が人為的に作られたのだとすると、粉を製造して散らしたのは彼女ではないのか?


 そう考えると辻褄は合った。誰かが作り出した物質、豹変した魔法の森、そして一向に姿を見せない魔理沙。だが何故? 彼女がどうしてそんなことをするのだろうか? どう考えてもその理由にはたどり着けない。


 いくら悩んでいても仕方が無いので、霊夢はおそらく近くにあるだろう魔理沙の家に向かうことにした。とりあえず重要参考人として、運が良ければ犯人として。もう地上での探索は必要ないと思ったので慧音に七を背負わせると、霊夢は一気に地を蹴って空へと上った。


 地上から数十メートル離れた所まで上ると流石に森を覆う毒素に影響されることもなく、三人はほっと息をつく。正確に言えば二人であって、おんぶされた七は初めての空からの眺めにきゃあきゃあ騒ぎながら喜びと興奮を表していた。慧音が困った様子でいるのを見た霊夢は、七が子供らしく喜んでいるのを見てなぜだか胸がすっとした。


 そこから魔理沙の家までは一直線だった。樹木の脇をちまちま歩いていたら相当の時間が掛かっただろうが、空から屋根を探せばすぐにそれは見つかる。もともと魔理沙宅は目立った造りであるため、遥か遠くからでも見つけることができるし、知恵のある妖怪の間では森近辺の待ち合わせ場所として便利だと聞いたことがある。すぐ上空まで来ると霊夢は下りようとして、その家から放たれる異常な臭いに気がついた。森全体に蔓延る臭いと一線を画す物。


 まるで酢とレモンと腐敗した醤油と生肉を混ぜてオートミールにしたものを家全体に振り掛けたようだった。つんと、激臭を放つ生き物のように魔理沙の家はそこにあり、どんな生物でさえも拒否する意志を示しているようだった。騒いでいた七もぴたりと動きを止め、魔理沙家から発せられる臭いに硬直している。


 確定ね、これ。霊夢はため息をついた。確実に今回の異変は魔理沙が引き起こしたものだわ。あのくそ馬鹿。


 霊夢は次第に鼻が麻痺してくるのを感じながら急降下する。おそらく今の自分には味噌汁と草の違いすら嗅ぎ分けられないだろうなと思いつつ、家のドアに近づく。慧音と七も遅れてやってきたが、七は本能が危険を嗅ぎ付けたように慧音の陰に隠れ、そこから顔を出そうとしなかった。怯えをどう受け止めていいか分からない動物の子供みたいに唸り、足でやたらめったらに地面を踏み付けている。


 家の中には何があるのか分からないため、霊夢は慧音と七にそこにいるよう言い含め、小さくドアを開けると魔理沙邸に入り込んだ。施錠してあったらドアを吹き飛ばす積りだったが、鍵はかかっていなかった。誰の気配も感じられなかった。


 屋内では思っていたほどの悪臭は感じなかった。その代わり、生暖かい熱気に満ちていた。摂氏三十度を越えるほどの不快な熱が体中にまとわりつき、思わず咳き込みたくなる。それを辛うじて堪え、霊夢は魔理沙が居そうな場所を探した。鍵がかかっていないので居ることを前提としているのだが、不在だった場合も意識の隅に組み込んでおく。急激な温度変化のせいで、液体の中をゆっくりと動いているような気がした。


 最初に居間、それから床伝いに書斎、客間(数百冊の本に埋もれ、さながら押入れの様を呈していたが)、寝室と探してみるが、彼女の姿は見当たらない。カーテンが締め切ってあるせいで部屋は薄暗く、狂人の研究室か密林を連想させた。明かりをつけようと思ったが、自分の位置を誰かに示すだけなので取りやめる――その誰かについては、あまり考えたくない。


 家の中は魔理沙なりに整理してあるのだろうが、それでも霊夢の目には台風一過のように写った。とは言え、ぐちゃぐちゃに攪拌されている家具や魔道書に視線を走らせるだけでも、上や中や床に散らばる金色の粉は確認できた。そしてそれはどの部屋にも見受けられた。即ち霊夢の勘が確定したということであり、かなりややこしい事態になったことを意味することになる。


 出来る限り神経を張り詰めさせながら霊夢は、魔理沙を見つけたらまず徹底的にとっちめてやろうと決めた。事実確認をするのはその後で、まずは張り倒してやるのだ。それは異常な状況を作り出した張本人に対しての理不尽な怒りの発露だったし、見知った家が異次元に放り込まれたような不安も霊夢にそう思わせた。彼女は魔理沙に対してむかむかと腹を立てていた。


 最後にたどり着いたのが、最も強い熱気を放っていると思われる場所だった。ここが一番可能性があるが、危険度もここが最も高そうに思えるため無意識に敬遠していたのかもしれない。『実験』と書かれたプレートがぶら下がっているドアからは、板一枚隔ててもむせ返るような熱気が伝わってくる。肺の中に毒が入り込み、体全体が汚染される感覚。長時間こんな場所にいれば呼吸困難になるのではと思えるほどだ。だが霊夢はドアの前で何度も深呼吸をすると、覚悟を決めて部屋に入った。


 そこには蠢いているものがあった。広い部屋ではなくむしろ狭いと言える場所ではあったが、それは縦横無尽に広がりそこを完全に己の領域としていた。触手にも似た毒々しい色の蔦が四方八方に伸び回り、かつて実験器具や何やらが存在していただろう場所を侵食し床や壁や天井を這っていた。それは確かに植物というカテゴリに属していたのだが、霊夢の中にある本能や理性がそう考えることを拒否していた――それは植物という範疇に納まるものではないし他のどの生き物にも当てはまらないと。


 言うなれば、怪物がそこにいた。


 その植物めいた代物の先端からは今まで見たこともないような形をした花が咲いていた。むしろ花というよりも肉塊のように見えたが、形は確かに花のそれだった。びろびろと裂けた人皮のように花はぶら下がり、絶えることなく何かが噴出している。よくよく見るとそれは粉で、しかも魔理沙の家のあちこちにあったものと、そして七が見たものと同一であることは間違いなかった。また花からは蜂蜜に似た液体が流れ出ていたが、霊夢にとってそれはどんな毒液よりも危険な代物だと断定できた。少なくとも、触れてみようとは絶対に思わない。発声器官がどこにあるのか分からないが、部屋の内部は甲走った声のようなもので埋め尽くされていた。


 魔理沙は中心部にいた。汚物や草や埃やその他よく分からない汚れがこびりついた服を着て、何日も風呂に入っていないらしく髪を脂塗れでぐしゃぐしゃにして、中央で座り込んでいる。普段は綺麗に梳かした金髪が、今では全体にラードでも塗りつけたようだ。帽子は部屋の隅に放り投げてあり、蜂蜜色の毒物に浸かっていた。よく見るとそこには巨大なプランターらしきものがあり、どうやら魔理沙はそれを弄繰り回しているらしい。そのあまりの熱中振りに声をかけても聞こえなさそうに見えたので、霊夢は危険を承知で部屋に足を踏み入れ植物が立てているらしい甲高い音に肌を粟立たせながらも魔理沙の肩に手を置いた。


 すると彼女は振り返らず一小節何かを唱えたかと思うと、次の瞬間に霊夢は雷に触れたように弾き飛ばされていた。魔術――それに気付いた霊夢は魔理沙が自分の存在を分かっていてやっているのか、それとも偶然ドアを開けて中に入り込んできた下級妖怪と勘違いしているのかと思いを巡らせたが、すぐに思考を切り替えて回避に移った。今この瞬間、魔理沙は自分を敵対視している事が真実だ。立ち慣れたあの感覚、弾幕ごっこ。怪物がひしめく場所でも、それは思考に冷却水を浴びせる効果を持った。


 魔理沙はプランターを守るように立ち上がると、霊夢に向かって星型の小型弾を撃ち込んでくる。頭部胸部腹部を狙うそれにあからさまな殺意を感じながら、霊夢は即席の小型結界を張ってそれを防ぐ。回避できるものは回避し、致命傷になりそうなものは札で作った簡易防御陣に防がせる。振り向いた魔理沙の表情は青白く、何日も眠っていないようだった。顔は以前見た時よりもどう見ても痩せ細り、目元には大袈裟と思えるほど隈が浮いている。まるで阿片中毒者の――しかも末期段階の様相だった。


 最も霊夢の注意を惹いたのは魔理沙の目だった。それはいつものハシバミ色の元気なものではなく、《病んでいる》と表現するのが適切だった。何が彼女をそうさせたのかは分からないが、今の魔理沙は霊夢がよく知る魔理沙ではない。どこか知らない世界、できれば一生知りたくもない場所から湧き出した魔理沙の形をした誰かだった。霊夢は懸命に弾幕を防ぎつつ、一旦居間の方へと逃れる。その後を早足で追いかける魔理沙。霊夢は七と慧音がこの場に立ち会っていないことを幸運に思った。今の音を聞いて入ってくる可能性も頭に浮かんだが、そうならないよう祈るのが精一杯だった。


 居間に飛び込むと霊夢は積み重ねられた本の陰に隠れ、魔理沙の様子を窺う。電気が点いていないのとカーテンが閉まっている事が幸いし、今の魔理沙には雑然とした部屋の隅に身を隠した霊夢の姿が見えなかったようだ。流石に自分の家だからか矢鱈滅法に弾をばら撒く積りは無いようで、霊夢の姿を探して飢えた野犬のように辺りを見回している。焦げた本の臭いが部屋に立ちこめるが、家を埋め尽くすあの悪臭までは消せないらしい。魔理沙がこちらから目を逸らした際、彼女の全身に札を貼り付けて動きを封じる算段だった。胸元からあるだけの札を取り出してその枚数を数えていた時、一番聞きたくなかった音が――入り口のドアが開く音が聞こえた。


 まずい、と思った時には既に魔理沙から放たれた弾幕が着弾していた。慧音が先導して入ったのだろう、自分たちに向かってくるそれに気付くとコンマの判断で彼女は全身を盾にして七を庇い、そのまま家の外に連れ出そうとする。魔理沙は追撃しようとするが、霊夢はそれを逃す積りは無かった。だが札は未だ投げる用意が整っていなく、スペルカードを撃つ時間は無い。霊夢の中でこれまで培ってきた反射神経と本能と鋭刃な精神が、咄嗟にある選択肢を作り、彼女はそれを掴み取った。


 山のように重なっている本や道具の間に霊夢はいた。ここでは狭すぎる、そう判断した霊夢は即座に眼前の本の山を蹴り飛ばし、幾つかの書籍が魔理沙の方へと吹っ飛んで床に落ちる。こちらに振り向こうとした魔理沙の顔面に向かって、霊夢はお払い棒を全力でぶん投げた。細腕から放たれたそれは今しがた本が占めていた空間を突き抜けて魔理沙の顔面を直撃する。両手から発射されようとしていた弾幕は消滅し、脱力してがくりと崩れ落ちる。おそらく顔に強い衝撃を受けたせいで失神したのだろう。


 避難しかけていた二人を呼びとめ、魔理沙が動かないのを確認してから怪我の状態を診る。慧音は全身を魔性の星に貫かれて血まみれとなっていたが、七は慧音が守ったおかげか全くの無傷だった。半妖怪という名に恥じず、すぐに慧音の傷跡は塞がり始めた。大多数の傷が消失した後で慧音が『弾幕に貫かれた歴史』を食うと、傷は完全に消失し服も元通りになる――少なくとも霊夢にはそう見えた。七は初めて慧音の能力を目の当たりにしたらしく、口をぽかんと開けて彼女をじっと見ている。どれほど奇異に写ったのか、ずっと彼女は慧音から目を離さなかった。七の口から涎が垂れて地面に落ちた。


「……で、どうしたんだ、あいつは。いきなり攻撃してきたのは」
 慧音は全身がきちんと動くか手足をチェックしながら口を開く。わからない、と霊夢は頭を振った。


「ただまあ、奥の実験室とやらに変なプランターと、馬鹿でかくて気味悪い植物があったわ。あそこから粉とか出てたし、あれが元凶でしょ。単にあいつは操られただけじゃない?」


「元凶……か、やっぱり粉を撒いたのは魔理沙なのか?」


「でしょうね。まあ、そこらへんはこれから問い詰めることにするわ。あんたはどうするの?」


「残るよ。釈明ぐらいは聞いておきたい」


「そ、じゃそこらへんに座ってればいいと思うわよ。ちょっと水取って来るわ」





 外に引きずり出した魔理沙の頭に桶ごと水を叩きつけると、全身を震わせながら彼女は意識を回復した。さっきまでの眼球の濁りは薄れたように見え、髪から水を滴らせて狼狽しながら周囲を眺める魔理沙は見た限りいつも通りだった。鼻の辺りにはお払い棒が直撃した痕が残っている。おそらく明日には膨れ上がることだろう。


「えー、……と。とりあえず質問していいか? なんで私はずぶ濡れなんだ?」


「あんたがいきなり私らを殺そうとしたからよ。とりあえず大体の事情は承知だと思うから、一番大切な事を訊ねるわね。何であの粉を撒いたの? 何で妖怪に里を襲わせたの?」


 途端、魔理沙の顔色が変わった。最初は驚いたせいか赤らんでいたが、すぐに動揺を含んだ青ざめたものに変わり始め、霊夢の顔をおどおどと見上げる。どうやら本人には珍しく相当動転しているようだ。自分には珍しく冷たく氷を抱えたような気分で魔理沙を見下ろす。


「……何の話なん「しらばっくれてると顔の皮剥いでから目玉潰して爪剥がすわよ。奥にある植物ならもう見た。あれが発してる粉も見た、襲い掛かってきたあんたを私はぶっとばした。何か釈明は?」」


 魔理沙は喉に何かを詰まらせたように口を開閉させながら、近くで座り込んでいる慧音に気付いたようで哀願するように彼女を見た。けれども慧音は慈悲の欠片も無い無関心な視線を返すだけだった。その隣では七が怯えた動物のように慧音にしがみつき、一寸も離れようとしない。とうとう魔理沙は観念し、両手を挙げて肩を竦めた。その様子には悪戯がバレた子供の表す諦めが見て取れたが、自分が惨事を招いた事への罪の意識は全く感じられなかった。開き直りが混じっているのか顔色も徐々に戻り始めている。


「参った。分かった。全部話す。話しますよ。そうだ、私が全部やった。お前が考えていると思う全てのことは私の責任だ。ついこの前、パチュリーの所から魔道書をかっぱらってきたんだ、いや違う借りてきた。本人は怒っていたけどな。確か本の蔵書点検日とかで、普段は奥にぎゅう詰めの貴重なものも積み重ねてあったし。で、借りてきた魔道書に『異界祭祀文書』というのがあったんだが、それにあの植物、ラーボヤーニの召喚方法が載ってたんだ。まあぱらぱらっと捲っていたら目に付いたから、呼び出すことにした。なんというか、面白そうだったからな。


 材料はあり合わせのものでなんとかなったし、マナの問題があるから――分からないと思うから説明するが、マナってのは魔法素のことで、それがある環境だとその人間の最大魔力度が底上げされる。たくさんあればその分効果が上乗せされる。その人間にとってその時一番縁のある場所でなきゃマナが溜まらないから、あの植物は私の家で呼び出した。物が物だから本当はもう少し私とは関係のない場所で召喚したかったんだが、これはマナの関係だから仕方ない。


 でまあ、そいつが発する粉やら液体からは精神に作用する薬……要するに催眠薬や媚薬の類だな、それを生成できるということなんで、作ったそれを実験ということで里の近くで撒いたんだ。その、妖怪がどんな反応をするかと思って」


「じゃ、あんたが私を攻撃してきたのはあのプランターを守るためってこと?」


「? 攻撃、……って、なんだそれ。そういやさっきお前が私をぶっとばしたとか言ってたが、それが関係してるのか?」


 霊夢は呆れて声も出なかった。この馬鹿は、自分で呼び出した植物に操られたせいで危うく正気すらなくしかけていたのだ。どうせ抽出した薬の原料を吸い込みすぎたのだろう。まああんな得体の知れない物と同居していればそうなるのも当然だろうし、たぶん家には所々ヒビが入ってるだろうから、植物が放つ毒素が勝手に漏れ出したに違いない。森の変貌もそれで納得できる。つまり元凶はあのラーボヤーニで間違いないというわけだ、なにもかも。


「それじゃ、妖怪たちが里を襲ったのは、あんたが命じたから?」


「それについては違う。薬の調合配分を間違えたんだ……本当なら、データを取ってから適当にサーカスごっこでもさせて森に放す積りだった。それがあいつらは暴走し始めた。多分液体を二滴か三滴入れすぎたんだろう。止める暇も無く一気に里に突っ込んでいっちまった。追うべきだったんだろうが、もう人間を襲い始めていたからな、私はバックれたよ。帰って証拠隠滅をしようと思ったんだが、どういうわけか家に入って気付いたらずぶ濡れだ。


 ……そりゃ、確かに私のやったことは間違いだったし責められても仕方が無いと思うが、だがまあ、里にはそこにいる慧音や、他の妖怪退治屋がいるんだ、大した被害も無かったんだろう? あまり頭の良い奴は頭数に入れなかったから、退治も簡単なはずだ。幽香や紫とか、萃香みたいな奴じゃなくてな」


 魔理沙が反論しはじめると、その後ろにいた慧音は無表情で立ち上がり、追いすがろうとする七を引き離すと魔理沙に近づいてきた。霊夢に向かって弁明をする魔法少女はそれに気付かず、そのため慧音の接近を許していた。霊夢はうすうす慧音が起こす行動を予測していたので、ただ傍観しているだけだった。地べたに座り込んでいた魔理沙が目視した時には、既に慧音の足は魔理沙の横っ腹を捉えていた。


 ぼこ、と砂袋を殴ったような音が響く。げっと呻いて魔理沙は吐瀉物を吐き出すとその場に倒れこんだ。いきなりの事に混乱しているのか逃げ出そうともしない。もう一発、二発、上から容赦なく蹴りが入る。怒りも憎悪も何も感じられない慧音の表情だが、しかし行動は雄弁そのものだった。腹に踵を叩き込み、背中を蹴り上げ、ふくらはぎに爪先を打ち込む。それを十回かそこら繰り返し行い、既に激痛と惑乱で虫のように悶えている魔理沙に向かって慧音はこう告げた。


「とりあえず、私からは以上だ。お前は楽観視していたようだが、実際の死者は十五人、負傷者は五十名を越えて行方不明者もいる。手足を切断した人もいるし、精神に障害を負った人もいる。これはお前の辞書には載っていないかもしれないが、言うなれば大惨事ということだな。知り合いだから今の所はこれくらいで許すが、多分里人がこれを聞いていたらお前は四肢切断の上耳と鼻を削がれて山に捨てられていただろうな。とりあえず後日改めて謝りに来い。許してもらえるかどうかは全くの別問題だが」


 肺に打撃を負ったのか、ひゅうひゅうと息も絶え絶えな様子で呼吸している魔理沙は慧音の言葉に返答も出来なかった。無言で七の元に戻る慧音を見ているうちに、霊夢は七の様子がおかしいことに気がついた。


 七は確かに魔理沙を見ていたが、実際にはその向こう側にある彼女の家を見ていた。彼女は声も出さずに震えていた。目を大きく見開き全身を縮こまらせて、まるで心底から恐れていた怪物が目の前に現れたかのような様子で。霊夢はそれを不審に思ったが、あの植物を怖がっているのだろうと考えることにした。家から実験室までは一直線だし、ドアは開けっ放しだったから見えても不思議ではない。霊夢でさえも、あの植物を見た瞬間は背筋がぞっとしたものだった。その口は何事かを呟いてもいたが距離が遠くて聞き取れない。どうせいつもの妙な独り言だろう。粉やら森やら何やら。


 なにせ彼女はそういう人間なのだ。


「……えーと。それじゃあ魔理沙、あんたがやったことは分かったとして、そうねえ……とりあえずあの植物は全面的に焼却処分、ちゃんと自分で責任を持って片付けること。三日後に様子を見に来るから、その時まだあったり隠してたりしたら家ごと消し飛ばすからね。


 それから、パチュリーに借りた本も返却しなさい。『異界祭祀文書』と、後なんだっけ」


 蹴りの衝撃から少しは立ち直ったのか、魔理沙は体を起こすと、『ネルモ』と『彼方よりお出でしフォスゲン』という名前を口にした。単語だけでも声にしたことが辛いのか、体を折り曲げて大きく咳をする――まあ、ハクタクに蹴られてそのくらいなら良い方だろう。肺が破裂しないだけマシだ。


 霊夢は地面に横たわる魔理沙に近寄ると、その背中を撫で摩る。最初こそ霊夢も冷ややかな目付きで魔理沙を見ていたが、彼女が慧音に蹴り転ばされる様を見ているうちに毒気が薄れたのだ。それに、いつも神社にやってくる友達が苦しんでいる様を黙って見過ごしたくはなかった――相手がどんなマッドサイエンティストにも負けないぐらい凄惨な事件を起こしたとしても。偽善だろうが、誰かが少しくらい情けをかけてやらないと可哀想なように思えたのだ。草に塗れて汚れきった髪も、労わるように触れる。あーあ、こりゃ相当ぐちゃぐちゃだわ、きっとお手入れとか全然してなかったんだろうな、こいつ。


 そうして呼吸が落ち着くのを待ってから言う。


「あんたにはあまり悪気は無かったのかもしれないけれど、蓋を開ければ相当酷い事になったわ。今度ばかりは融通が利くものじゃないの。だからまあ、ちゃんと反省して里の人に謝って、里の修繕手伝って、後ついでに墓標に御参りでもしてきなさい。それくらいの脳味噌も無いあんたじゃないでしょ。分かった?」


「…………分かった。分かった。今度、……謝りに行くよ。また蹴られたくないしな」
 魔理沙は恨めしそうな目で慧音を見たが、彼女はそれを意に介さず平然としている。


「宜しい。心配したんだからね、この大馬鹿」
 言って霊夢は、先ほど魔理沙の顔面にぶっつけたお払い棒で彼女の頭を小突くと立ち上がった。本の特徴を教えてもらい、魔理沙の家から三冊の本を取ってくる。その本は触れているだけで手が溶け出す感覚を覚えたが、おそらく幻覚の一種だと思うことにした。あまりこういう本に関わっていると先ほどの魔理沙のようになってしまう。後で適当にあの魔女に返してこよう。三日後に来ると改めて伝えると、霊夢たちは魔理沙邸を後にした。


 行きは慧音が抱えていたので、今度は霊夢が七を抱えて飛ぶことにした。抱き上げた拍子に湿った泥の臭いを感じたが意識の外から追い出す。最後まで七は魔理沙邸を覗き見ていたが、視界から消えると雲や太陽に目を向けるようになった。さっきまでは粉の影響を受けない空にいても不安があったのだが、森中に蟠る異変の正体がつかめたと思うとそれはきれいさっぱり消えてしまったようだった。人間は正体とか理由が知れない事象を怖がるのであって、タネが割れてしまえばそうでもなくなる。手品のようなものだろう。


 そうして里外れの七が見つけた隠し穴の近くに下りて彼女から離れようとした時、七は霊夢の服の裾を引っ張りある言葉を口にした。しかし霊夢はここ数時間森の中を探索したし弾幕ごっこ(殆ど殺し合いのようなものだったが)をこなしたせいもあるが、何よりもあの植物を見てうんざりしていたため、七の言葉を気にも留めなかった。


 彼女の疲弊以外に理由を挙げるとするならば、七は必要以上に魔理沙邸を怖がっていたし、霊夢の中の深層を流れる部分は七を小さな狂人であることをきちんと意識していた。そういうわけで、霊夢は七が確かに口にしただろう言葉を聞き流すことにして、七を慧音に押し付けると結界を解除して穴の中をくぐり始めた。神社に帰ってお茶を飲みたかったし、風呂に入って汚れた服を着替えて、あの家のことを綺麗さっぱり忘れたかったのだ。


 霊夢はその言葉を数週間後、魔理沙邸の調査も終えて(植物は影も形もなくなっており、魔理沙はすっかり平常の状態に戻っていた……そう見えた)平和な一時を過ごしている中、七が失踪したことを慧音から知らされた際思い出すことになる。それは霊夢の中に棘となり、しこりとなって遺跡のように残され、霊夢はそれに目をやるたびに僅かな罪悪感と喪失感とに心をちくちく傷つけられるのだ。


 彼女はこう言った。


「まだいる」





 全身に拡散していた激痛がおさまりかけた所で魔理沙は立ち上がり家の中に入った。外では小雨が降り始めており、ぱさぱさと葉に水滴が落ちる音が聞こえてきた。とうとう空が泣き出したらしい。もう少し時間が遅かったら雨の中を横たわっていたのかもしれないのだから運が良い。


 弾幕ごっこのせいで元々乱雑だったのが更にめちゃめちゃになった居間を通り、実験室まで向かう。部屋を見回し自分が異次元から召喚した植物を眺める。異界から呼び出された生き物はもうじき自分がどうなるかも知らず、召喚主がやってきた様を見て蔦を揺らして喜んでいる。いざ焼却する際にはどんな悲鳴が上がるのかと思うと少しだけ心苦しくなるが、まあそれほどでもない。


 むしろ様々な方面で役立ったのだから、召喚された側としては万々歳だろう。


 植物が立てる耳障りな音の中、おもむろにプランターへと近づくと土がぎっしり詰め込まれているため重いそれを苦労してどかし、小型の魔方陣の全体が見えるようにした。それに顔を近づけ古代ルーン文字の一単語を唱えるとそこにあったはずの床は消え、地下室と地下室に通じるための梯子が姿を表す。部屋を引き払うときには入り口も再設定しなければならなくなるが、それについてはどうとでもなる。


 梯子を伝って魔理沙は下りていった。


 つい最近構築された地下室は上の実験室よりも遥かに狭苦しく、遥かに暑苦しかった。真上にいる植物を育てるために室温や湿度を高くしてあるし、しかもここにいる生き物は更に温度を上げた環境――つまり真夏の密林と殆ど同じ空間――を好む。おまけに隣には以前作製した個人使用の浴場があるのだ。魔理沙としてはもう少し冷やした方が好みだが、こればかりはそこにいる生き物を優先させなければならないので仕方が無い。


 魔理沙が下りきる前から鳴き声は聞こえていたが、梯子から降り立ち地面に立つと《それ》は魔理沙に突進し、勢いをかけて抱きついた。《それ》の皮膚は固くざらざらして汚らしさが目立つのだが、魔理沙にとっては何の不快感を齎すことなくむしろ気持ちのよさを覚えるほどである。《それ》が口を開くと、生臭い息とともにガラスとガラスを掏り合わせたような甲高い声を上げた――それが鳴き声であることを、それも嬉しい時に鳴くものであることを知るのは幻想郷を探しても魔理沙一人だけだろう。《それ》が元いた世界ではどうなのか知らないが。


《それ》は犬に似た四本足をばたつかせて、魔理沙の胸に黄緑色の粘液を擦りつけながら擦り寄る。闇色の濁った瞳が魔理沙の顔を捉え、ご主人が来たことを心から喜んでいる様子だった。尻尾を振る様さえ想像できそうだった――もともと犬のような体型をしているので、より思い描きやすい。尤も、それに尻尾は無く、代わりに下腹部に開いた穴から鉄色の糸らしきものが複数伸びているだけなのだが。


「おーおー、よしよし寂しかったか? いいじゃないか、こうして毎日お前に会っているんだから、そんな鳴かなくても。……ああそうか、あの子か? そっか、お前、『見えてる』もんな」


 魔理沙は自分を散々蹴り飛ばした慧音の隣にいた子供を思い出す。ぼうぼうに伸びた髪の毛、垢にまみれた全身、そして栄養不足のせいでがりがりに痩せて腹が出た体。彼女は怯えた目付きで魔理沙の家を……魔理沙の家の中にいる《それ》を見ていた。おそらく勘が良く、そして危険に敏感なのだろう。だから気付いていた。見た感じ頭の出来は良くないが、危険を察知する能力は獣のように優れているのだろう。


《それ》はそんな子供が大好物だ。自分の立ち位置を知り、今ここで何をすればいいか分かっている人間、己が持つ生命を宝石のように輝かせる人間、数多の中から時折現れる人間。


 霊夢は気付いていなかったが、まああいつの勘は最近鈍っているから仕方が無いと魔理沙は思った。もしくは、頭の中をラーボヤーニが占拠してしまっているせいで《それ》が入る余地が無いのだろう。あの様ではそのうち世代交代でもさせられるかもしれないが、それはその時の話だ。


 魔理沙はどっかとその場に座り込み、膝の上に《それ》を乗せ背中の毛穴から立ち上る猛毒の霧を鼻一杯に吸い込みながら思い返す。――パチュリーから本を奪ってきた日の夜、ぱらぱらと気のないままページを捲っていたら《それ》が載っているページを見つけたこと(名前の部分は文字が薄くて見えなくなっていた)。写真に載っている《それ》の姿に一瞬で心を奪われ、その夜のうちに召喚の儀式を済ませて呼び出したことを。絵で見た時から《それ》との相性は抜群だということは確信していたが、実際に目の当たりにして更に予感は深まった。


 魔理沙は《それ》に対して惜しみない愛情を注ぎ、《それ》もまた応えてくれた。言わば魂と魂が惹かれあうようなものだ。自分を見上げる《それ》の目を優しく見つめ返しながら、魔理沙は物思いにふける。


《それ》を呼び出した後で、魔理沙は二つの問題に迫られることになった。一つは餌の問題。《それ》はどうやらグルメらしく、魔理沙が出した食事は悉く受け付けないために困ったことになっていた。


 それからパチュリー、彼女は相当怒っていたからいつしか取り返しに来るだろうし、おそらく彼女は魔理沙が何かを召喚したことを嗅ぎ付けるだろう。パチュリーは魔理沙の癖をよく知っているし、百年を越えて生きているだけあって相当頭の回転も速い。下手をすれば《それ》の存在を暴かれ、離れ離れにさせられるかもしれなかった。だからこそ、彼女の干渉をなんとしてでも回避する必要があった。


 こうした問題を解決するため、魔理沙は神代から存在する生き物が載っている本を精読し、ラーボヤーニを発見し呼び出した。


 一つは、パチュリーの目をカモフラージュするための存在として。


 一つは、餌を用意するための方法として。


 結果として両方ともうまくいった。先にあの二人が訪ねてきたのは予想外だった(ついでに言えば、あそこまで暴力を振るわれたことも予想外だった)が、そのおかげでラーボヤーニの存在を知らしめることができた。おそらく霊夢たちはそれの噂を広めるだろうし、いずれ本が手元に戻ってきたパチュリーの耳にも届くだろう。そうすれば、彼女はそれで勝手に納得して事態を終わらせてくれるに違いない。


 霊夢に弾幕をぶちまけたのも演技のうちだった。あの植物が魔理沙の気を狂わせたことを印象付けるための真っ赤な嘘。本当を言えばそのずっと前、《それ》の写真を見た時から既に魔理沙は発狂という階段の一段目を踏みしめていたのだが、今の彼女にとってそれは瑣末で、道端の動物の死体よりもどうでもいいことだった。


《それ》がねだるような声を上げて魔理沙の顎を舐めるので、魔理沙は頭を撫でて立ち上がり、隅にある餌箱に近づいて中身を取り出す。《それ》は餌にむしゃぶりつくと、美味そうに鼻を鳴らして食い始める。肉を千切り、骨を取り出し、むしゃむしゃと。《それ》が喜んでくれるから何より魔理沙には嬉しかった。なにせ出した分を凄まじい勢いで食ってくれるのだ。気合を入れて大量に調達した甲斐もある。目立たないように少しずつ手に入れることもできたのだが、それが腹を減らしてきゅんきゅん寂しそうな声を上げるのが我慢ならなかったのだ。そんな声を聞いてしまっては、あまりに居た堪れなくて魔理沙は自害してしまうだろう。


 これまで数多くの餌を魔理沙は与えようとしたのだが、その中で一番《それ》が好意を持ったのは魔理沙の足の肉だった。魔理沙自身には決して噛み付こうとしないのだが、もしやと思い肉を切り取り差し出すと《それ》はがっつくように咀嚼し胃に放り込むのだ。大抵の妖怪らは人肉を主食としているのだが、《それ》は種族の面で言えば神に属してもおかしくはない性質だったので、人を食うとは思いも寄らなかったのだ。


 だから彼女はラーボヤーニから抽出した粉に魔術改造を施しそれを妖怪たちに振りまき、馬鹿で阿呆で小鳥程度の脳しか持たないそいつらを暴走させ、里から餌を持ってこさせた。本当を言えばあそこまで被害を大きくする積りは無かったのだが、どうやら妖怪たちも最近は欲求不満だったらしい。後で里には謝りに行かなければならないが、どうとでも誤魔化せる。最悪スペルカードで偽者と入れ替わって、そいつに死んでもらえばいいのだ。そうすれば自分は死んだものとしてゆっくりと実験を進められる。


 とりあえず、次はあの乞食を食わせることとしようか。魔理沙は《それ》の食事風景を眺めながらそう思った。体部分は少し悪いかもしれないが、脳ならば十分口に合うはずだ。


《それ》は魔理沙が与えた餌を食い終わると、満足したらしく盛大なげっぷを出す。そして魔理沙の元に近寄ると前足を脚にかけて舌なめずりした。その行為が意味することを魔理沙は承知していた。もう《それ》と彼女は何回かしたことがあるからとっくに慣れっこになっているのだ。


 なんだ、もうやりたいのか?


 部屋中に充満している毒の空気を存分に吸い込みながら、魔理沙はどろどろのおかゆみたいに蕩けた笑顔を浮かべる。全く苦痛ではなく、むしろこれから《それ》が与えてくれるだろう快感を思い、既に頭の芯に火がついたようになっていた。


 彼女はゆっくりと服を脱ぎだす。上着を一枚一枚取り去っていくごとに、《それ》の目が血走り鼻息が荒くなるのが分かる。彼女はくすくすと笑い、まったくせっかちだなあと思う。全裸になった魔理沙の上に《それ》がのしかかり、そして始まる。


 いつか《それ》が大人になった時、正式に《それ》と魔理沙はまぐわうことができるようになるだろう。そうなれば魔理沙は《それ》の子供を産むことができるし、背中から噴きだす霧はより濃度を増し魔法の森を人外の場所へと変えてしまうだろう。幻想郷をそれが住みやすい場所へ変えてしまうだろう。彼女は早くそうなればいいと、《それ》に抱かれる度に思うのだ。


 その前に竜や八雲紫に魔理沙は消滅させられるかもしれないし、見せしめとして死ぬより酷いことをされるかもしれない。だがそれに何の意味があるだろう? 既に魔理沙の意識は理性とか正気とか言ったものを遥かに飛び越えて、ただただ《それ》との嗜虐に満ちた行為と冒険と食事に飛び込んでおり、それは彼女が辿り着いたユートピアだった。


 まさに魔理沙は楽園に辿り着いたのだ。


 部屋の隅では、《それ》が食い荒らした後の子供の首が転がり、一人と一匹の情事を見守っていた。
復路鵜
2008年12月11日(木) 19時04分23秒 公開
■この作品の著作権は復路鵜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
うーむ三ヶ月ぶり。ダメですね。精進します。
尚この作品はサークル『残0抱え落ち』が発行した『文樹絵花』に寄稿した作品を加筆修正したものとなります。

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Click!! -20 Betty ■2017-04-26 10:14:40 46.161.14.99
Click!! Click!! 10 Sonny ■2017-04-26 10:08:55 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! 50 Darnesha ■2017-04-26 09:56:36 46.161.14.99
Click!! Click!! Click!! Click!! Click!! -30 Elric ■2017-04-26 09:26:47 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! 50 Jazlynn ■2017-04-26 08:52:16 46.161.14.99
Click!! Click!! Click!! Click!! Click!! 30 Retta ■2017-04-26 08:27:50 46.161.14.99
Click!! Click!! Click!! -20 Kiana ■2017-04-26 08:17:44 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! Click!! -30 Kelenna ■2017-04-26 06:33:32 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! Click!! Click!! -20 Lissa ■2017-04-26 04:54:06 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! Click!! -30 Buck ■2017-04-26 03:46:18 5.188.211.170
Click!! 50 Lyzbeth ■2017-04-25 18:52:39 5.188.211.170
Click!! Click!! 30 Tess ■2017-04-25 18:08:26 5.188.211.170
Click!! Click!! 50 Tilly ■2017-04-25 17:05:00 46.161.14.99
Click!! Click!! Click!! -20 Rangler ■2017-04-25 16:40:26 5.188.211.170
Click!! 30 Sunshine ■2017-04-25 15:42:11 46.161.14.99
Click!! -20 Almena ■2017-04-25 14:17:36 46.161.14.99
Click!! -20 Yancy ■2017-04-25 12:48:49 5.188.211.170
Click!! Click!! 10 Suzy ■2017-04-25 12:18:38 5.188.211.170
Click!! 50 Lisa ■2017-04-25 11:52:30 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! Click!! 30 Karson ■2017-04-25 09:35:43 46.161.14.99
Click!! Click!! Click!! Click!! -20 Marni ■2017-04-25 08:42:51 46.161.14.99
Click!! Click!! -30 Jaycee ■2017-04-25 06:21:25 5.188.211.170
Click!! Click!! 50 Vicky ■2017-04-25 06:03:50 46.161.14.99
Click!! Click!! Click!! Click!! 10 Emma ■2017-04-24 23:08:02 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! Click!! Click!! -20 Adelphia ■2017-04-24 22:47:33 46.161.14.99
Click!! -30 Gabby ■2017-04-24 22:26:10 46.161.14.99
Click!! Click!! Click!! Click!! Click!! 50 Deandra ■2017-04-24 19:32:20 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! Click!! Click!! 50 Ellyanna ■2017-04-24 18:45:48 5.188.211.170
Click!! 30 Jetson ■2017-04-24 17:12:13 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! Click!! 10 Maisyn ■2017-04-24 16:39:34 5.188.211.170
Click!! Click!! 10 Valinda ■2017-04-24 16:24:13 46.161.14.99
Click!! 50 Tess ■2017-04-24 14:10:02 46.161.14.99
Click!! Click!! Click!! Click!! 10 Butterfly ■2017-04-24 09:29:26 46.161.14.99
Click!! Click!! Click!! Click!! Click!! -20 Tessie ■2017-04-24 08:26:51 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! -30 Dilly ■2017-04-24 08:15:01 5.188.211.170
Click!! -30 Makaela ■2017-04-24 08:10:59 46.161.14.99
Click!! 10 Keisha ■2017-04-24 07:23:40 5.188.211.170
Click!! Click!! 10 Heaven ■2017-04-24 07:18:44 5.188.211.170
Click!! Click!! 50 Nevaeh ■2017-04-24 07:06:04 46.161.14.99
Click!! Click!! 30 Chuck ■2017-04-24 06:51:34 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! Click!! 30 Dayana ■2017-04-24 05:52:36 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! Click!! Click!! 10 Precious ■2017-04-24 04:34:15 5.188.211.170
Click!! -30 Roby ■2017-04-23 20:55:07 5.188.211.170
Click!! 30 Jodi ■2017-04-23 20:04:02 46.161.14.99
Click!! -30 Lolly ■2017-04-23 19:01:08 46.161.14.99
Click!! -30 Lenna ■2017-04-23 18:38:19 5.188.211.170
Click!! 30 Krystalyn ■2017-04-23 16:41:56 46.161.14.99
Click!! -20 Vyolet ■2017-04-23 12:57:33 5.188.211.170
Click!! 30 Sharky ■2017-04-23 12:39:12 5.188.211.170
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Click!! -30 Tori ■2017-04-23 08:50:38 46.161.14.99
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Click!! -30 Miracle ■2017-04-23 07:58:14 46.161.14.99
Click!! 10 Maggie ■2017-04-23 06:26:01 5.188.211.170
Click!! 30 Armena ■2017-04-23 06:07:57 5.188.211.170
Click!! -30 Carli ■2017-04-23 05:50:48 46.161.14.99
Click!! 10 Githa ■2017-04-23 05:00:06 5.188.211.170
Click!! 10 Clarinda ■2017-04-23 04:49:29 46.161.14.99
Click!! 10 Blue ■2017-04-23 04:15:45 5.188.211.170
Click!! -20 Jobeth ■2017-04-23 03:54:17 5.188.211.170
Click!! 30 Kaylie ■2017-04-23 03:15:22 5.188.211.170
Click!! -20 Kaylan ■2017-04-23 02:40:32 5.188.211.170
Click!! Click!! 10 Dilly ■2017-04-23 01:34:04 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! Click!! -20 Johnavon ■2017-04-22 23:54:15 46.161.14.99
Click!! Click!! Click!! Click!! Click!! 30 Kapri ■2017-04-22 23:08:06 5.188.211.170
Click!! 50 Jesslyn ■2017-04-22 22:34:24 46.161.14.99
Click!! Click!! Click!! Click!! Click!! -30 Etty ■2017-04-22 22:12:20 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! Click!! Click!! 30 Emberlynn ■2017-04-22 21:39:31 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! -30 Anjii ■2017-04-22 20:01:54 46.161.14.99
Click!! Click!! Click!! Click!! -30 Forever ■2017-04-22 18:15:19 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! 10 Jacalyn ■2017-04-22 15:56:55 5.188.211.170
Click!! Click!! Click!! Click!! -30 Thena ■2017-04-22 14:25:07 5.188.211.170
Click!! Click!! 30 Forever ■2017-04-22 12:10:46 46.161.14.99
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Click!! Click!! Click!! 50 Elmira ■2017-04-22 09:47:42 46.161.14.99
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Click!! Click!! Click!! Click!! -30 Alexavier ■2017-04-22 07:10:29 46.161.14.99
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Click!! 10 Lore ■2017-04-22 06:59:12 46.161.14.99
Click!! Click!! Click!! Click!! 30 Cade ■2017-04-22 05:38:34 46.161.14.99
Click!! Click!! Click!! Click!! -20 Dalton ■2017-04-22 05:32:21 5.188.211.170
Click!! Click!! 30 Leaidan ■2017-04-22 05:29:58 46.161.14.99
Click!! Click!! 10 Jodie ■2017-04-22 05:23:05 5.188.211.170
合計 590
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