ひとりぼっちのイヴはどこに行ったのか?
 パレットナイフを握り締めると、痛みで涙が溢れそうになる。


 イヴは腰を下ろしていた。闇色に縁取られた床には他の不純物が一切無く、まるで暗黒そのものから切り取ってきたようだった。座りながらイヴは涙を零していた。なぜ泣くのかわからないまま、ひたすら彼女は顔を手で覆っていた。理由も行く末も定かでない嗚咽を彼女のどこかにある部分は不思議がっていたが、けれども別のどこかはその訳をきちんと分かっており、悲しんだり痛ましく思いながら涙を流していた。寒くはなかったのに体の震えが収まらず、手の中でバラが壊れそうなほど揺れている。ギャリーならそんなイヴにどんな言葉をかけるだろうか。彼なら彼女に再びプレゼントをくれるだろうか。楽しい話をしてくれるだろうか。


 そのギャリーはイヴの横で眠っている。



 青いバラを持っていたはずの手には何も握られておらず、そして彼が持っていたライターはイヴのポケットにある。それでメアリーを、メアリーの絵をこの世から消し去った。廊下を覆う緑色のいびつな茨と、かつて暗闇でギャリーが火を点けた時の、壁や床に描かれた悲鳴の落書きとが心の中で合わさった瞬間、イヴの中で力が生まれた。それは不定形で柔らかくあったけれど、断固として彼女を動かした。それはイヴに初めてライターを点けさせ、燃え落ちた緑の通路を通らせた。その先には……あれがあった。メアリーによく似た、いや少女にそっくりな、そのものの絵が。ふわふわした金髪の髪も青色のぱっちりした瞳も、それからギャリーのバラに何か恐ろしいことをした指も、茨によく似た緑色のワンピースも全てがそのままだった。絵を見つけた際の記憶は、それ以降が薄霧に囲まれている。前後関係は曖昧でふわふわとして頼りなかった。メアリーがその後やってきたのかもしれないし、ひょっとしたらイヴは彼女と共に絵を探し当てたのかもしれない。もしかしたらもっと違う状況だったのかもしれない。メアリーはギャリーに対した時のように狂い顔を浮かべていたかもしれないし、イヴの前で見せた友達の顔をしていたかもしれない。もっと別な顔をしていたかもしれないが、全てはイヴの記憶と共に暗黒の彼方へ葬られた。


 そしてメアリーは燃えた。


 気がついた時には焦げた炭のようになってしまっていた。あっけなく燃え落ちたメアリーからは何の思いもやってこなかった。罪悪感はなく焦燥も不安も悲しみも来ず、ただ灰になった物体が見せる、寒々しくもバカらしいほどの単調さだけがイヴに投げかけられていた。あっけなさすぎて、何の達成感もなかった。その時ようやく、イヴの中に力を生じさせたものが如何に虚しい代物だったのか、黒く黒く濁っているくせに煙のように吹けば消えるものであるかを知った。イヴがかつてドラマでこれに似た場面を見た時、いろんな名前がつけられていたような気がする。復讐とか、血の連鎖とか、憎しみとか。だが父親や母親はイヴにそんなテレビよりも紀行番組や演奏会みたいに毒がなく、あまりにも清々しいものを見せていたから、彼女が知っているのはごく限られた部分だけだった。いずれにせよイヴの中にあったもののせいでメアリーは消えた。死んだのかもしれないし、誰も知らない世界へひとり旅立ったのかもしれない。メアリーは消える刹那に悲鳴をあげたのかもしれないが、よく覚えていない。ギャリーのバラを取り上げて笑った時は、本当によく耳に響いたのに。今こうしてイヴの手にナイフが握られていなければ、かつてメアリーが彼女の後ろを歩いたことさえ幻覚に思えてしまいそうだった。


 その後何が起きたんだろう?


 イヴはつとめて思い出そうとした。だができなかった。何か、ギャリーのバラを引き裂くことよりも恐ろしいことが起きた気がする。メアリー焼失後、放心状態でふらふらと彷徨った末に美術館のような所へたどり着いたことはどうにか思い出せる。真っ黒で風邪を引いた夜のような、どろどろとして嫌な気持ちになる場所だった。絵や彫刻たちを通り過ぎた先で何かがあった。だがそこから全てが途絶する。睡眠にも似た暗闇が記憶に幕を引いてしまい、気づけばイヴはひとりぼっちで床に震えていた。


 そうじゃない。隣にはギャリーがいる。


 彼はメアリーにバラを引きちぎられて、動けなくなった。あの壁の女に傷つけられたように。イヴは初めてギャリーの手を掴んだ。ギャリーの手に力はなく、動き出す気配もない。温かいと思っていたけれど、随分冷えてしまった。前はこれと逆の構図だった。イヴが悪夢に囚われている間、ギャリーはコートを被せて恐ろしいものたちから守ってくれた。もう食べてしまったけれど、レモンキャンディもくれた。


 イヴは立ち上がった。パレットナイフをポケットに押し込む。彼女の手には花びらが全て落ちたギャリーのバラ。花瓶を探さなければ。青色の花びらが落ちてただの棒にしか見えなくなったそれを、暗闇で掴む松明みたいにイヴは固く握りしめた。『永遠の恵み』のように花瓶へバラを挿せば、きっと花びらが元気になるはず。例え膨らむはずの花びらがゼロだったとしても、またどこからか出てくるに決まってる。きっとそうだ。そうでないはずがない。イヴは階段の上と下を眺めてから、上へと改めて目を向けた。確かあの真っ暗な美術館に入る直前に、花瓶があった気がする。このスケッチブックにある、茶色い部屋の外側だ。前にそこを通った時はメアリーに突き落とされたショックでバラの花びらが散っていたから、どうしても花瓶にバラを挿さないといけなかった。一度挿せば、もう水がなくなってしまうんじゃないだろうか……? だけど、ここは不思議な所だ。一度使った花瓶も、時間が経てばまた使えるようになるかもしれない。そうだ、そうかもしれない。きっとそうだ。大丈夫だ。


 彼女はゆっくりと、ギャリーから離れること一筋の恐ろしさを覚えながら歩きはじめた。ごめんね、ギャリー。また戻ってくるから。彼女は下にいる人形たちが上へ来ないことを祈った。


 今度はイヴがギャリーを助けなければならなかった。







 花びらから立ち上る心の空気。
 それは静かに、何者の干渉も受けずに舞い上がる。
 果てなどなく、夢幻の如く。







 階段を登り切っていくらも経たないうちに、足元の歪みを感じた。ぐにゃりと、イヴの足元が唐突にねじれた。一瞬渦を巻いたように見えたそこは、次の瞬間は波のように揺らめいていた。目を疑ったイヴは一歩下がり、大きく遠回りすると今度はゆっくり歩きはじめた。この滑稽で邪悪な此処で生きてきたイヴは、命を奪う邪悪なものについて知っている積りでいた。壁や天井、それから燃え落ちた茨のカスにも目を向ける。ところどころ緑が残っていたが、もうぼやけて消えてしまうようだった。絵の具に水をかけたように、だんだん薄まっていくみたいだ。壁にはぼつぼつ穴が開き、天井から暗闇が入り込む。するりするりと天井から別な種類の暗黒が覗くのを見ることには、心を冷えさせる何かがあった。どこかで何かが崩れる音がするが、音の方向にも闇しかない。耳がきぃんと音を立てるような、嫌な音色がする。前にギャリーは耳鳴りがしたと言っていたけれど、それに似ているのかも。横目で見えるメアリーの部屋には、努力して意識を向けまいとした。ドアを開けた。


 外に出ると変化は顕著となった。メアリーが形作っただろう天井はゆらゆらと揺れて、遠くの木々は音もなく震えている。そこに実っていたはずのリンゴやメロンたちは下に落ちたのか影も形もない。反対側には公園の名残りがあったが、そこに飛んでいるチョウチョは羽が四つも五つもあって、がむしゃらに地面を跳ねまわっていた。あれに巻き込まれたらどうなるだろうと考えて、やめた。さながらスケッチブックそのものが次第にやる気を失い、どうでもよくなってへたりこむ様に似ていた。足元では蜂のような虫が動いていたが、緑色の廊下にいたアリのようにそれは地を這いまわるだけで飛ぼうとしない。イヴは気を落ち着けようと深呼吸した。足元はまだ確かだ。歩いている感触すら不確かになって消えていくことが、一番気持ち悪かった。


 歩く。歩く。歩く。後ろで扉が閉まったり、何かが落ちてくる音は聞こえてこない。罠はない。やがて彼女は茶色い部屋の外周に置かれていた花瓶を見つけて大きく息を吐いた。目的地を探し出すと勢いは早くなる。バラさえ挿してギャリーが元に戻れば、後はまた出口を探すだけだ。さっきのあの黒い美術館からどこに行けるのかはわからないが、どこかには行けるはず。身震いするようなここから出たらギャリーとアイスを食べたり、クレープをごちそうになったり、マカロンのお店にも――


 イヴは花瓶に茎を挿した。


 つぷ、と水面に茎が入り込む感触がした。まだ水は残っているらしい、あるいはどこからかやってきたか。そのままするすると茎が水を吸い取るのを感じて胸が高なった。すぐにでもバラは元気を取り戻して伸び上がるだろう。目を閉じたイヴは自分の花びらが花開いたのと同じように、ギャリーのそれも力を取り戻す様を想像した。一秒。二秒。だが花びらが戻ってこない。イヴは目を開けた。一度抜き出してもう一度挿してみた。花瓶にバラが入ったが、まだ花は咲かない。背筋が音を立てて凍り始めるのを感じたイヴは突然浮かんだ考えに突き動かされて、花瓶を覗きこむ。


 水はきちんと入っていた。


 動かすと、たぷりと音がした。


 ゆっくりと花瓶を元に戻したイヴは、また目をつむって体からせり上がるものと戦おうとした。それは紛れも無い氷でできているのに彼女の頭と心に火をつけ、お腹の中身を雑巾のように絞ってしまう何かだった。あらゆる思考を置いてきぼりにして、ただ胸が痛くなったイヴはしゃがみこんで唸った。ううう。唸った。うううう。えずいたが中身は出なかった。喉の奥で苦い汁が溜まり、今度はお腹の下辺りで何かがすごい勢いで走りはじめた。そこに手を当てて擦った。怖くない。怖くない。お母さんが病気のイヴにそうするようにやった。お母さんのマッサージをイヴは必死に繰り返した。怖くない。怖くない。怖くない。大丈夫。少し落ち着いてきたイヴは立ち上がると震える肺で深呼吸を繰り返し、またギャリーのバラを挿した。何回でも挿そうと思っていた。手が震え始めたイヴは、自分のバラを挿したらどうなるだろうと思って……やめた。これはギャリーの花瓶だ。イヴが使ってしまっては元も子もない。そもそも彼女の花びらは五枚きっちり揃っている。だからこれはギャリーのものだ、彼が元気になるためのものだ、イヴが手を出すなんてとんだお門違い。きっと目を覚ましたギャリーは怒り出すだろう。あらイヴ、なんてことしてくれるのよ、おかげで起きるのが遅れちゃった――


「イヴ」


 後ろからギャリーの声がした。


 イヴの心臓が動くのをやめて、だんだんとお腹の下に落ちていく。それからまた上へ戻ったかと思うと、今度は雷のような勢いで動き始めた。どくどくどく。どくどくどく。理由など分からないが、イヴは恐ろしくて振り向けない。ギャリーの声がして嬉しく嬉しくてたまらないはずなのに、彼女の震えはさっきよりも大きい。イヴは唾を飲み込んで、花びらが全て落ちたギャリーのバラを握りしめた。パレットナイフはポケットの中にある。

「どうしたの、イヴ。こっちに来てちょうだいよ。もう元気になったんだからさ。一緒に行きましょう。どうしてさっきは逃げたりしたの? またメアリーに見つかる前に、早く出口を探さないと。ねえなんでさっきは逃げたのよ?」


 声をかけられれば良かった。あのねギャリー、メアリーは私が燃やしたんだよ。ギャリーのライターで、彼女の絵をぼうぼう燃やしたんだ。よく覚えてないんだけどね、すごい勢いで火が広がったからびっくりしちゃった。あれ? ムジュンしたこと言ってる。おかしいね、ギャリー。ギャリーがイヴの胸に突き刺す言葉を無視し、彼女は口を開いて「あ、」まで声を出した。きっと本当に声が出たなら、考えた事そのものではなかったにせよ近いものが出てきたに違いない。だが実際には止まってしまった。彼女は胸中から湧いてくる激痛を抑えるために目を閉じた。ギャリーが靴音を立てて近寄ってくる。とつとつ、とギャリーみたいな音で。彼から発せられるものがイヴの近くを通り過ぎ、そして触れる。彼女は怖くて目を開けられない。ただ震える喉で、ギャリー助けてと呟いた。天井の上からごとりと音がする。草木はうわさ話をするように蠢きあい、イヴが求めるギャリーはどこにもいない。海辺の砂が風に飛ばされ消えるほどの時間の後で彼女が目を開けたのと、ギャリーの手が肩に載せられたのはほぼ同時で、彼がイヴをのぞき込んでいた。


 ギャリーらしき者の手は青かったし、顔色も青ざめていた。それなのに目と開いた口の中がびっくりするほど赤くて、人や動物やいろんな生き物の血を混ぜたような色だった。ボタンみたいな目がぎょとりぎょとり動きながらイヴの顔に何かを向ける。ほつれた鼻から糸が飛び出ていた。口は開きっぱなしだから乾いているだろうに、喉の底で何かがもぞもぞ動いていた。暗転。向きが変わるように男の顔がウサギになった。ぬいぐるみならかわいい表情のそれは目と口がバツ模様で、人間ならありえない形のそれがイヴを見ていた。バツの下で何かが動きながら膨らんで、外に出ようとあがいている。緑色のきょとんと驚いたような目はコマのように顔中を動きまわり、そこにない何かを探しまわっていた。イヴ、と名前を呼んだのかもしれないが、針と糸で縫いつけた口から噴き出すのはくぐもった物の声だけ。暗転。青ざめた顔色と緑の表面とが混ざり合ってどす黒い紺色になり、ウサギの目と青い目とが合わさって四つになった。表面からまた生えて八つになった。口と鼻と目がぼこぼこぼこぼこ増えていく。首が失敗作の人形みたいに動いた。斑点だらけになった顔に平地がなくなり、ひどいでき物に悩まされる人の顔になった。イヴはずっと無言だった。


 長い間、何かがずっとイヴの中を通り抜けていた。これまで味わったことのないものが、聞いたことも見たこともないものがイヴの脳から足先までを貫いて、消えていく。それに音はなく形もなく、ただただ陰惨な気付きと爆発に近い拒絶を彼女の中に残していった。目の前にいる名付けようのない者は、イヴの中に名前のつけられないおぞましい何かを植え付け、成長させていた。圧倒的な質量でそれがイヴを押しつぶそうとする。怖気、恐怖、おぞましさ、寒気、そのどれでもない黒い青い赤い狂奔。それに対する彼女の反応は、一切の抵抗と拒絶そのもの。目を閉じ耳を塞いで口を開け、絶叫しながらの逃避だった。


 イヴは思い切り体をひねってそれを突き飛ばした。見かけよりも細身だったそれはギャリーの声で悲鳴を上げ、やや後ろに下がる。彼女は全身の力に流されるまま花瓶を掴むと、後ろも見ないでそっちに投げつけた。鈍い音と花瓶の割れる残響。またギャリーの悲鳴が聞こえてイヴは耳を塞いだ。それから脇目もふらず走りだす。足をバネにして靴を潰しながら。漆黒の宇宙を匂わす不気味な空間を、死につつある生き物のような空間の中を、ただ体が命じるままに走りだす。後ろから濡れた声のギャリーが追いすがる。イヴの名前を繰り返し呼ばわりながら。イヴ、イヴ、イヴ!


 そこに広がる響きは、もう怪物のそれだった。







 稀代の芸術家が生み出した舞台の沼で。
 ゆっくりと組まれるそれは人間の胎児にも似ていた。
 形を整えながら孵化の時を待つ。
 外に出たい。飛び出したい。
 流れる時を。







 床にへたりこんだイヴは喘ぎながら泣きじゃくっていた。咳と痰と鼻水と涙がいっしょになってぐちゃぐちゃとなり、イヴの心で渦巻き模様を作っていた。丸まった彼女はしばらくまんじりともできなかった。前から横から何かの視線を感じていたが、もうどうでも良かった。このまま目を閉じて横になっていられればそれで良かった。


 あれからイヴは死に物狂いで走った。ひたすら自分がやってきた道を走った。どこかからやってきた爆発と嫌悪は彼女の記憶を汚してしまい、どこを走ったかも覚えていなかった。茶色い部屋かもしれないし、おもちゃばこに戻っていたのかもしれない。メアリーの消滅はいろいろなところに影響を及ぼしていたのだろうか。ここに来られたということは、階段がつながっていたかどこかの壁に隙間が開いていたということなのだろう。まだら模様の記憶をほじくり返しながら、何が起きたかを取り出そうとする。多分イヴは糸のようにほつれた階段を這い上がる思いで駆け上がり、子供ひとりぶんの隙間に無理やり体を捻りこんだ。もしも途中で体がつかえれば死ぬより恐ろしいことになったと思う。そしてずっと後ろからギャリーの声が聞こえていた。イヴは耳を塞いでいたからそれだけはハッキリ覚えている。やがて声が聞こえなくなり、とうとう逃げ切ったと思った瞬間イヴは耐え切れず吐いてしまった。胃液と今朝食べたものとがとろとろに溶かされて出てきて、このままだと死んじゃう、と思った。


 けどこのまま死ねればいいな、とも思った。


 横たわったイヴは、壁にかかった絵を見た。タイトルこそ分からないものの、虫のようなあるいは爬虫類のような絵柄だった。目こそ動かないが視線を感じる。それをどうする気力も知恵もイヴにはなかった。そのまま五分、十分、横になっていた。


 体が楽になると、自然と思いだけが動き出した。ギャリー。彼がどうなったのかではなく、ギャリーに似た怪物の正体はなんだったのかでもなく、彼とイヴがした楽しい話について考えた。お菓子、ボロボロにデザインされた不思議なコート、趣味、喋り方、髪型、その考えだけがイヴをなぐさめた。だが考えているうちとギャリーの重さに彼女の心が耐えられなくなってしまい、また涙がこぼれてきた。お父さんお母さんでもなく、ただひたすら生きたギャリーに、手が青くなく顔がまともなギャリーに会いたかった。抱きつきたかったし話をしたかった。頭をなでたり、コートの裾を引っ張ったら不思議そうに見下ろすギャリーと一緒にいたかった。もうここから出られなくてもいい。あの時間に、あの瞬間に帰りたかった。


 何かに追いかけられるのはもう嫌だった。怖がらせられるのも、食べた物を吐くのも嫌だった。誰かを燃やすのも嫌だった。何もかもが嫌だった。もう彼女の何かは折れてしまっていた。とっくに折れていたのだろう。それに気づかないでいられたのは、きっとギャリーがいたからだ。彼がイヴの辛さを肩代わりしてくれた。だから彼女は嫌な場所を延々と歩いてこれた。


 もしもここでイヴが死ねば、ギャリーは迎えに来てくれるだろうか?


 難しいことや面倒くさいことなど考えたくなかった。頭の痛みと気持ちの高ぶりがそれを阻止した。だからイヴは考えを放り投げて、自分の手にあるバラをじっと眺めた。五枚ある花びらはふさふさとして元気そうで、イヴの気持ちをこれっぽっちも考えていない。そう思うと無性に腹が立ってきた。怒りに身を任せて引きちぎろうかと思ったが、ふと自分の格好があまりにも汚すぎることに彼女は気づいた。イヴは涙と鼻水で汚れた顔をこすってハンカチで整え、精一杯身だしなみをした。いざギャリーと出会った時に服装の汚れを指摘されるのは嫌だったし、ヘンな顔をギャリーがするのもなんだかきまりが悪かった。だけどこれで彼の元に行けると思うと、心の底でポッとロウソクが点った。ほのかな温かみを感じながら、彼女はバラに手をかけた。


 一枚を何の気なしに千切った途端、凄まじい激痛がイヴの胸から広がった。心臓が割れたような、あるいは頭に釘を打ち込んでできた亀裂に手をかけて、思い切り横に引き裂いたような。イヴは悲鳴をあげて悶えた。断続的にやってくる頭痛と胸の痛み。イヴは床を転がっては両目を固く閉じて痛みをはねのけようとした――だいたいにおいてその試みは失敗だったが、やがて痛みは薄れて考える余裕がでてきた。


 なぜここまで痛いのだろう。かつて彼女は何度も怪物たちにぶつかったし、その時もバラはぱらぱらと落ちた。だがこれほどの痛みを感じたことなどなかった。それはなぜ? イヴはすぐ理解した。ギャリーだ。彼がいてくれたから我慢できたのだ。今の痛みはギャリーの分。かつてあの人が引き受けてくれた痛みだ。そう思うと、叩き潰されて消えかかったロウソクにもう一度火がつく。たっぷり二分は時間をかけて息を整えた。足が震えて竦むけれど、できるだけのことはした。もう一枚、イヴは目をつむってギャリーの名を呼びながら思い切り千切った。


 全身に詰め込まれた爆弾が一斉に破裂した。


 粉微塵になったような、あるいは全身の骨を砕かれてからそれを混ぜられたような。痛みでイヴは気が遠くなった。


 ギャリーのためギャリーのためギャリーのためギャリーのためギャリーノタメギャリーノタメギャリーギャリーギャリー……


 ギャリーのバラだったものを潰す勢いで掴みながら、彼女は心の中で立ちつくす彼にすがった。それからまた泣いた。痛すぎた。あまりにも辛すぎた。こんな痛みがあと三回残っている……そうじゃない。これ以上だ。


 きっと次は、もっともっと痛いのが来る。さっきは頭が割れて、今は全身が爆発した。なら次は、溶けるの? 食われるの? 彼女の想像の外からやってくる痛みは、それだけでイヴを発狂させるんじゃないだろうか。バラを捨てて服を脱ぎ去り、裸で歌いながら走り回る自分を想像したイヴは心の底が抜けるような感触を味わった。全身が別種の怖さで震え出す。そんなイヴをギャリーが迎え入れてくれるわけがない。彼はやれやれと首を振って本当のイヴを探しに行くだろう。だけどこれをしないとギャリーの元に行けない。彼と一緒になれない。彼女は嫌がる片手を押さえつけて、バラを掴ませようとした。手が震えすぎてダメだったから自分の歯で噛んで、引きちぎろうとした。あふれる涙や叫びと共に剥ごうとして、突然考えがある所にたどり着いた。


 これで本当にギャリーの元に行けるの?


 あのギャリー、ただ眠っているだけじゃないの?


 ふるりふるりと雪が落ちるように、イヴの心と体から力が抜けていく。胸の隅でコートのような安堵が広がり、彼女を包む。二つの考えがイヴを止めた。これでギャリーの元に行ける保証などないし、よくよく思い返してみると彼はただ眠っているだけのようだった。手は冷たくていくら揺さぶっても目が開かないが、だけど彼は先に行ってと言った。きっとバラが引きちぎられた痛みで、どうしても寝なければならなかったのだろう。寝ている間に痛みは消えるのだ。風邪だって病気だって、たいていは寝ている間に治っている。


 ならイヴがやるべきことは自分のバラをちぎることではなく、ギャリーを起こすことだ。


 今までの血を吐く努力はすべて無駄だったが、これで痛みからは逃げられる。彼女がバラから歯を離すと、ほっとしたように花びらが揺れた。寝ているなら、起こさなければ。そう思うとさっきよりは全身に力が入った。イヴはわずかずつ起き上がる。あの花瓶はダメな水だったのだ。そう結論づけた。描かれた湖のように、生ぬるくてダメな水だったに違いない。むしろ茎がダメにならなくて良かった。今度こそギャリーを救える、それからイヴのバラも助けられる花瓶の水が必要だ。それに彼が寝ているだけなら、横でイヴが守らなければ。通路の下には無個性や人形たちがひしめいていた。もしもギャリーがそいつらに襲われれば大変なことになる。イヴはもう一度立ち上がる。そして恐ろしい者がいるだろう方向とは反対に、さらに元きた道を歩きはじめた。花瓶の水を見つけて、それで萎れきったバラを回復させたらギャリーの元へと戻るのだ。それで全てが良くなる。イヴはまたトカゲの絵に目を向けた。


 もう視線を感じなかった。







 生まれは、宙から始まる。







 かつてメアリーが闇の美術館と回廊の間に自らの世界と称してスケッチブックを創造するまで、ワイズ・ゲルテナの世界は邪悪な芸術作品たちの溜まり場だった。頭のない無機質たち。上半身しか外に出られない女。思い出したように降ってくるギロチン。顔面に張り付いた赤い手形と正直者を血祭りにする嘘つきたちの世界。母親のように包んで心を溶かす人形ども。その他、名も知られぬ暗黒たち。かつてゲルテナという芸術の道に走った狂人は、その生涯をかけて多くの絵画そして彫刻に魂を分け与え、数多くの作品らは自意識に近い何かを持つようになった。作品らは己そして自己そして自我の偽物を持ち、世界を崩れた視野で認識するに至った。無論ヒトが作り上げた作品であるからたくさんの齟齬や矛盾が存在し、それほど狂気に塗れていない作品もいた。だがそうした仄かな優しさと希望を抱かせる作品らが、圧倒的な狂気とどう分かり合うというのだろうか。作品らの総体によって創造に至った世界の色は、壁の厚さは、床の暗さは、誰かの気まぐれのような一部を除いてただただ静かで暗い狩場でしかなかった。少ない希望は数多くの絶望と怒りに踏みにじられ、また絶望らはそれによってますます自身の破壊性を拡大した。そして芸術家は、己の死後に作品による世界がそうした変遷を経ることを知らないまま、誰も戻ってこれない彼岸へと渡った。かくしてゲルテナが末期に描いた少女――名をメアリーと冠する――が目を開けるまで、ここは魂の残りカスが生を得て走り回る、発展途上の狂気らによる異形の展示会だった。


 メアリー生誕の後、そこにわずかの秩序と少女を仮の王とした空間が生まれつつあった。暗黒を主とした環境が奥底に何を秘めていたかは定かではないが、やがてメアリーの気まぐれと行動に付き従う奴隷たちが増えていった。あたかも火に虫がつきまとうように、メアリーの周囲を人形たちが回るようになった。人の精神に感応する彼ららしく、模造された人の心にも引き寄せられたのかもしれなかった。


 だが少女の焼失後は、再びこの無限に近い空間が無秩序と成り果てた。


 その狂乱に理性や遠慮は皆無で、あるいはメアリーの強制から脱した反動かもしれなかった。イヴが混ざり者から逃げ出した際、既におもちゃばこに留まっていた人形らは、莫大な質量と野放図で以って上階へと脱出していた。その際に転がっていた男の死骸は踏みにじられた後、闇の一部に放り捨てられた。かつて絵空事の世界でギャリーと呼ばれた男は、捨てられるまで人形らによる玩具と化していた。ひきずられ引っ張られ、あるいは二歳児の手に渡ったビニール人形のように振り回された。彼が生きていれば絶叫しただろうその有様も、もう死体であるから無意味だった。無意味から無意味への冒涜行為。人形たちは有り余った力を爆発させる先を求めていた。そして男は破壊破壊破壊の最後に闇の奥へ投げ捨てられた。人形たちはその後、スケッチブックやメアリーの肖像が飾られていた部屋の破壊を始めた。ある意味でそれは大掃除とも似ていた。壁、床、木のようなもの、生き物モドキ。全てが対象となり、破壊に際限はなくなった。悲鳴のない阿鼻叫喚は、静かに静かに幕を開けた。


 外と中との入り口手前でイヴを捕えそこねた者が通り過ぎた時、辺りは命を持たない暴徒らによる荒廃状態となっていた。燃えこそしなくとも破壊されきったメアリーの世界は歪みと異常をますます大きくし、多くの無個性たちはその闇に引きずり込まれた。だが人形どもによる暴走に終わりはなく、目先も未来もない自滅は彼らが終わってしまうまで延々と続けられた。実際の所、命が毛ほどしか備わっていない彼ら彼女らに恐怖心というのは皆無だったし、どこか暗い所に連れ込まれたり投げ落とされたりしてもまるで痛苦を感じなかった。だから一生涯を暗闇で暴れまわることになる未来を知ってか知らずか、人形たちは好き勝手に壊しまくった。そしてやがて少女の世界は完全に崩れ始め、人形らは予見の意味もない崩落に巻き込まれる。


 一つの世界が終わる。メアリーがとても短かった生涯を経て築いた全てが崩落して無に戻る。


 爆発に似たそれの余波はゲルテナの世界まで響き渡る。子どもの手でばらばらにされた青いバラの花びらは、ふわふわとどこにも行けない完全な虚無へと落ちていった。


 やがてゲルテナの魂が染み込んだ、新しい世界が生まれるだろう。浮上した大地に無個性や絵画の女、そして一風変わった怪物を乗せて。絵空事の住人たちには無意味な世界の片隅で、ひっそりとそれらは犠牲者を待ち受けるのだろう。


 あらゆる毒素を詰め込んだ煮汁のような其処には、優しく悪意なき地獄が底の底の底で熟しつつあった。







 誰も知らない幻想からやってきた。
 混沌。ファンタジア。夢。彼岸。あるいは心。
 点から線へ、線は面へ。面は星に。
 星は瞬きながら落ちてくる。
 底に光る星は真珠そのもの。







 踏みつぶしたアリの肉体がイヴを苛んでいた。それは最初の時期、彼女がこの嫌な場所に迷い込んですぐだった。絵画のアリを踏んだ瞬間、それの肉体が爆ぜた。まさか絵を踏んだからと言って肉体も潰れるなんて思わなかったのだ。触覚は吹き飛び中の肉が丸見えになり、何より踏んだ感触も生々しかった。ぐちりともぐちゃりともつかない、固い泥を踏んだような感じ。すぐに足を離したが嫌な感触はなかなか消えなかった。今、その開腹したアリの肉体がイヴを責めていた。爆ぜたビラビラがどうして踏んだのだと。伸びた触覚がなぜ飛び越えなかったのかと迫ってくる。ぼくの絵をどこにやったのかと、小さなアリが戦車のような大音量で襲いかかる。耳鳴りの比ではなく、それは耳元で銅鑼を鳴らすようなものだった。イヴは身震いしてごめんなさいと頭を下げた。それで許してもらえるとは到底思えなかったが、他にどうすればいいか分からなかった。ただひたすら小さいアリと大きな死骸の前で膝をついて、ごめんなさいごめんなさいと泣いていた。眼前の怒りは消えずにイヴの心に突き刺さる。そのうち自分が謝っている意味も分からなくなり、アリによる罵声も単なる雑音にしか聞こえなくなる。ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……何に謝ればいいのか。一体どうすればいいのか。繭のような罪悪感と迷いがイヴの心を包み込んで締め上げる。お父さんにお母さんにメアリーとギャリー、ただひたすら周りを歩きまわる、自分が出会った人々に謝り続けた。自殺した人が遺書で謝るみたいに。彼らは無表情でイヴを見下ろし、やがてメアリーは燃えてギャリーは眠りお父さんお母さんが……


 目が覚めた。部屋は暗いけれど、自分が目を開けたことだけは分かった。


 風はなかったのに寒くて心細かった。イヴはここにギャリーのコートがあれば良いと切に思いながら、体を縮こまらせた。絵もなく電気もない小部屋。何かいる気配がなかったからそこで横になっていた。寝ている間に何かが害を与える可能性もあったが、イヴはそこまで命にこだわる必要性について分からなくなりはじめていた。胸にはバラの花が三枚、ギャリーのバラは同じ状態。


 自分がどこにいるのか、もう分からなくなっていた。


 イヴは道を遡っていった。通路を進んで迂回をし、崩れている所を見かけては遠回りをする。体の小ささが功を奏して、無理やり狭い通路に自分をねじり込むこともあった。メアリーと出会った場所、火気厳禁、猛唇、猫の顔。ある時、どうしようもなく進めなくなってしまった時があった。他の通路は塞がれており、また別のルートでは無個性たちが争っていた。廊下の隅に転がる、散々自分が叩き落としたマネキンの横を通るのも怖かった。それらは目から血を流して空の一点を睨みつけていた。だから更に戻って、別の道を探そうと来た扉を開けた時だった。暗闇が広がっていた。悪夢の如きそれにイヴが怯んでいると手が伸びて彼女を掴み、扉の中へと放り込んだ。咄嗟にバラを抱えて体を丸めたがそこは変哲もないただの通路になっていて、他に何も襲ってこなかった。どうやら混乱させるためのトリックだったらしく、イヴは息を吐こうとしてから、いる場所に見覚えがないことに気づいた。


 読めないタイトルの絵たちが並び、ただただ長い通路が伸びている。何百メートルもあるその端まで歩いて階段を上がると、妙に曲がりくねった迷路が続いていた。音はなく誰もいない。人形も絵も彫刻も見当たらない。歩いているうちに茫漠とした不安が胸の裡に広がっていく。それをくぐり抜けては階段を登り降りし、それを何度も繰り返した。手応えのなさ、前進しているという達成感の不在。やがて言葉のない無為が全身に広がっていったが、その度に彼女はバラを掴んだ。触れただけでも感じる痛みは真新しく、イヴの憂いた心に刺激と潤いをもたらした。そして何度も考えた。花瓶を見つけて茎を差し込み、ギャリーの元へ戻らなければならない。それが目的だ。そのためにここを歩いている。諦めないで、諦めないで、諦めないで。


 何度登り降りしただろうか。一度気になって数えてみたが、十八を越えた所でもうやめた。そして部屋に入った。もうそんなことについては、自分が考えるべき場所を越えている実感があったし、それに……それに……


 考えたって、どうしようもないよ。


 だから彼女はバラを掴んで、無意識に引きちぎっていた。


 昔イヴが外で遊んでいる時に、大きめの蜂を見つけた時があった。彼女は蜂の危険性をよく知っていたから、遠くのベンチに座って眺めているだけだった。近づくと刺すかもしれないことはお母さんから聞いていたけれど、遠くにいれば大丈夫だとしっかり教わっていた。遠くでカラフルな石が飛んでいるような姿を眺めながら、あれに刺されて泣いた子の話を思い出した。だけどイヴの横にいた友達が石を投げた。気づかない蜂に当てようと三回も四回も投げた。その男の子はあまり頭が良くなくて、何か馬鹿なことをしてはすぐに怪我をする子だった。びっくりしたイヴは逃げるべきか止めるべきか迷った挙句、追いかけてきた蜂に子どもと一緒に捕まった。腕と足を二カ所刺され、イヴもやっぱり泣いた。夜に男の子の母親が謝りに来た。


 その二カ所は今、二万へと拡散し全身に飛び散った。


 声すらまともに出ず、イヴは寝そべったまま痙攣を繰り返した。全身が粟立ち喉がまともな音を発さない。一秒ごとに痛点が膨れ上がって割れて膿になる。どこにも力が入らずどこもかしこも痛みで満ちていた。苦痛の海が頭を溶かし、脳をも溶かす。毒が血管を通って全身に回る。心でイヴは絶叫していたが、それらは一切外に吐き出されることなく腐っていく。無限の廊下でイヴは一人、痛みに震えていた。ぶるりぶるりと沈黙そのものの地獄に閉じ込められながら、何十分も何時間も何年もそうしていた。それしかやり過ごす手段がなかった。体全体が痛みになり、他には何もなかった。マグマに飲まれる。鯨の胃に溶けていく、骨になった心はカタカタと音を立てて狂い笑顔を浮かべる。天井で悪夢のアリが迫ってくる。


 痛みのトンネルはどれほどの長さだっただろうか? やがて痛みという爆発が収束しはじめた頃、イヴにもう花びらへ触れる勇気はなかった。自分のバラだというのに触るのが恐ろしく、今度赤いそれに触れたら、それだけで心臓が止まってしまうのではないかと思った。涙も鼻水も出尽くしたと思ったのに、拷問を終えて横になっているとそれが戻ってきてイヴはまた泣いた。鼻水のせいで鼻が痛くなった。もし明日があるなら起きたイヴの顔はめちゃくちゃになっていて、お母さんが大いに怒ることだろう。お父さんはヘンな顔をイヴに見せて、どこかで誰かにいじめられたのかと尋ねるだろう。だがここには誰もいない。何もない。ただ心が挫けてどこにもいけないイヴが泣いているだけ。


 もうとっくに彼女の心は折れていた。


 そして行き場所もなかった。


 生きてギャリーの元へは辿りつけず、お父さんお母さんの家に帰る道は閉ざされた。ここに無個性たちが押し入ってイヴをめちゃくちゃにしてくれる様すら彼女は願った。せめて他人がバラを破壊してくれれば、少なくとも自分でやるより楽なはずだった。無為。無駄。諦念。諦めがイヴを満たしているのに、終わりは一向に訪れない。死ぬべきはずなのに、まだ死んでいない。


 どこかで道を間違えた、とイヴは思った。本当ならもう、とっくに終わっているはずだった。電気は消されて幕は引かれ、ステージには誰もいなくなるはずだった。だけど何かの手違いがあって、来るはずの終わりがいつまでもやってこない。照明だけが点けられたステージで、誰も観る人もいないままイヴは棒立ちになっている。止まれなくなったゼンマイ人形、落ち続ける小石、今の彼女がまさにそうだ。このまま誰も来ないまま、イヴは永遠にひとりぼっちのままなのだろう。子どもにとって暗黒はあまりにも広すぎて、あまりにも寂しすぎた。一人きりの彼女はどんどん広くなる部屋の隅にうずくまったまま、ずっと向こうから押し寄せている暗黒に潰されている。悲しみだけが飛んできて、イヴを覆った。泣いて泣いて泣いて、やがて涙が枯れ果てても、まだ終わりがやってこなかった。


 絶望だけがイヴの隣にいた。


 やがて青色の悲しみではなく茶色い痒みが彼女の体を占めるようになってきた。手先から足までむず痒い感触が生えてきて、イヴはぼりぼりと音を立てて掻いた。心から逃げるために何度も爪でごりごりとやっているが、皮膚は赤くなるどころか固くなりはじめた。全く楽にならない。まだ持っていたパレットナイフで手の甲を突いてみたが、硬い感触が返ってくるだけで痒みは残っている。訝しんだイヴだが、何かを考える気力は残っていなかったから、適当に捨ててしまうことにした。何もすることがなくて、イヴはギャリーのライターを掴んだ。かつてメアリーを燃やした炎の在り処。こうして触れているとギャリーの温かさと同時に、まだ自分の中にある黒く狭いものが渦を巻き始める。イヴは目を閉じて、彼との楽しいことだけを思い浮かべるようにした。だがどの絵にも鏡に写したギャリーの顔が黒く塗りつぶされたように、何かに黒く侵食されていく。抵抗しようとしたイヴだが、やがて彼の服装までがだんだんとぼやけてきた。黒なのか灰色なのか、紫なのか、もしくは緑色なのか。イヴはよろめく足に力を入れて這いずる、這いずる、悲鳴を上げながら立ち上がる。記憶のギャリーすら消えはじめている。自分がどんなことになっても、彼の姿だけは失いたくなかった。イヴが諦めても、彼女の中にいるギャリーは諦めてはいけないとイヴを呼ぶ。その声すら彼女は気づかないところだった。


 だからイヴは痒みを増す足を壁に擦りながら、歩き出した。


 ギャリーの為に生きなければならない。


 ギャリーの所に行かなければならない。


 暗黒へ彼女は歩き出す。







 青ざめた空が淀みながら溜まり、ぼやけた色彩を生み出す。
 濃くなだらかな斜面から液体が生まれ、それは誰も見たことのない想像から創造へと到達する。
 来るもの全てを受け入れる。来るもの全てを飲み込む。
 青い父性は死してなお形を変えず、数多の芸術たちと親和するようになる。
 それはまさに深海の世。







 おそらくラビリンスと呼ばれていただろう、多くの芸術品がさまよう場所をイヴは通り抜けた。無個性、赤い女、人形の群れ。椅子とソファと意味のない彫刻。群れ惑い遊んでは暴れだす模造品たち。その脇を通り抜けながらイヴは、何度これを繰り返すのだろうと逡巡を噛み締めながら、新しい扉へと向かった。プレートには色とりどりの色彩の名前が示されているが、その中身は空虚極まりない。


 ゲルテナの世界に改変が訪れていた。今はまだ途中なんだとイヴは直感で感じた。壁の色が半端に塗り替えられ、床は雲のようにふわふわと頼りない。かつて模様を統一していた、あの恐ろしい場所とはまた異なる不気味さがあった。怪奇でも恐怖を衒ったものでもなく、一秒後に何が起こるかわからない世界。足元に穴が開くかもしれない世界。時計の針が進むように赤い照明が青色に変わり、緑になったと思えば白になる世界。かくれんぼをする悪魔が出てくる世界。氷を模した大地、空に落ちていく庭園、上を渡り歩くべき眠る大蛇。単眼の女性たちが歌い踊る部屋。メアリーのおもちゃばこをリサイクルした部屋も見つけた。一度イヴは、メアリーが描いただろうスケッチブックを見つけたのだ。それは随分と小さくなって乾いていた。イヴが触れると本はぱらりぱらりと音を立てて落ちていき、炭になった。もうメアリーはいないし、彼女が好きだったものも嫌いだったらしいものも消えた。いるのはイヴとバカみたいな美術品の数々。


 イヴはそれでも無感情に、ただギャリーの元へ戻ることだけを考えた。通路と階段の繰り返しをやめようと、望んで穴に落ちたこともある。ほぼ自傷願望に似た思いからだったが、割れ目に落ちるとそこは見慣れた廊下で、ただねじれた空間だけがこの美術館にあるのだと彼女はため息をついた。バラは散らずに足に痛みもなかった。むしろ体の感覚がだんだん薄くなっていくようだった。何かに触れたり持ち上げても、それは指先の感覚でなく見ている目を通じてイヴが認識しているからようやく分かるのであって、いざ目を閉じて物に触れたら実際にどうなるかは分からなかったし、確認したくなかった。自分の体すらイヴの心から遠ざかっているようだが、ショックを受ける余裕はなかった。


 改変はイヴの中にも生まれつつあった。痒みは自然に治まってきたが、足が遅くなって腕が太くなった気がする。何かに刺されたような症状だったが、そんな覚えはなかった。鏡はないから確かめようもない。それに自分の体にあるリズムやタイミングというものが、以前とはまるで違ってきていた。物を掴むタイミングや足運びも違ってきていて、目線がだんだんと変わっていくからふらつきも覚える。足が早くなったのか、それとも美術品たちが遅くなったのか? 寝ている間に人は成長するらしいけれど、イヴのこれは成長というのかあるいは病気と呼ぶべきなのか分からなかった。彼女は何かを見下ろすことが増えた気がする。以前は畏怖の対象だった無個性たちとも背丈が同じになってきて、どこか怖がる事が減ってきたようだ。美術品を見て怖がったり鳥肌を立たせることも少なくなった。イヴのお父さんならそれに頷き、だからお父さんは芸術家を目指す夢を諦めたんだよ、とイヴに教えてくれたかもしれない。それは感情の摩耗。変化と成長と何かしらの症状による、子ども時代からの脱却だった。感受性の減衰。感じることの減少。経緯はどうあれ、イヴの体は九歳から変わりつつあった。年齢一桁で現出したこの現象は異常そのものだったが、この美術館に異常など星の数ほどもあった。


 だが何よりの変化はバラに訪れていた。バラは間違いなく大きくなっていた。わずか二つという貧相な花びらだったがそれは一回りぷっくりとなり、大義そうにゆらゆらと揺れた。茎は太くなり、伸びていた。色は……色は、なんと言ったら良いのだろうか? 赤からグラデーション模様に変化を経ていたが、これはまるで、まるで……青みがかったとしか言えなくなっていた。紫と一言で表せば済むはずの変化は、だが自分に起きた出来事と考えると、どうとも言いようのない寒気を感じさせるものがあった。原因は――ありすぎるほど考えついた。この美術館そのものが原因に間違いないし、細かく見れば一万個ぐらい思いつくんじゃないだろうか。湧き起こる不安を消すには、花瓶一つさえあればよかった。それだけあればイヴはギャリーの茎を挿し、一目散に彼の所へ戻ることができた。


 だが未だ花瓶は見えない。


 疲れという概念はイヴの中に存在していなかった。そもそもそんな思いが消えるほど歩いていた。同じような道・似ている道・それっぽい道を何回も、何十回も歩いた。絵は異なり、徘徊するものも異なっていた。だが廊下の構造自体は一切変わらず、イヴは砂時計の両極を行ったり来たりしているような力が抜ける思いを繰り返し噛み締めた。何かに殺してもらおうかという思いも何度か芽生えたが、人形たちはイヴを見ても攻撃せず、かえって逃げるか無視した。柱に頭からぶつかったり、バラをちぎる勇気などなかった。だから――イヴは今回も、無駄だと半ば知りつつも、角を曲がった。曲がろうとした。


 そこにギャリーを模した男を見つけるまでは。


 息が止まりそうになったイヴは、喉をひきつらせながら足を止めた。心臓を跳ねさせるのではなく肺を殴りつけ、そのせいで吐き気に似た思いが喉の奥からせり上がってくる。辛うじて目を逸らして吐き気をせき止めた。ウサギと人形を混ぜた混ざり者。あれがどうしてここにいるのか、追ってきたのか。イヴの中でそれは人間でなくもちろんギャリーでもなく、彼に似せて作った度外れに汚い生き物だった。どうしてギャリーの姿に似せたのかと言えば……分からなかった。分からなかったが、それが本物のギャリーにとって良いわけがない。あれがもしイヴより先にギャリーを見つけたら、本物はどうなるだろう?


 困惑と目眩に耐えながらイヴは目をつむり、ギャリーお願いと呟きながら、ポケットにあったパレットナイフを取り出す。鈍い切っ先を持つと、手の震えが収まるような気がした。人形の目。ウサギの口。うるさい。うるさい。もう追いかけられるわけにはいかない。


 今はこっちが追いかける番だ。


 体はともかくイヴの心は九歳だから、人の殺し方を知っている年ではない。だがとにかく、頭か喉か心臓を突けば死ぬかもしれないことは分かっていた。そこが体でも重要な場所だからだ。それでダメなら、とにかくどこでもいいから刺せば良い。殺す。殺してしまえば全てが丸く収まる。なんてことない、一人燃やしたのだ。もう一人殺るのも簡単に決まってる。イヴは暴れ狂う心臓を押さえながら大丈夫大丈夫とつぶやき、立ち上がった。角の向こうで奴はしゃがみこんでいる。何をしているのか知らないが、少なくともイヴが先に動けるのは確かだ。角から首を覗かすと、まだいた。すぐ前で何かをいじっていた。ナイフを握りしめたイヴは断固とした足取りで、混ざり者の後ろから歩み寄った。殺す。絶対殺す。ギャリーのために。そしてそいつの首に狙いを定めてナイフを振り上げたイヴは、混ざり者が弄っている物を見た。


 ギャリーの、首。


 首から下が、なかった。


 脳が裏返るような思いだった。四回、いや五回ほど回って、それから穴の底に落ちていった。最初にパレットナイフが落ちて、からからと無機質な音を立てた。その拍子に混ざり者がこちらを振り返った――その見かけは、追いかけられた時と同様、ウサギと人形の顔面パーツが混ざり合っていた。それ自体が衝撃的なはずなのに、何も浮かんでこない。イヴを不思議そうに見上げていたそれは首を戻し、もう一度ギャリーの首をいじりはじめた。断面から伸びた肉とか皮とか糸みたいなものを。ぐいぐいぶちぶちと……認識した瞬間、脱力した。へたりこんでいた。足が動かなくなり、手足が凍る。股間の辺りが生暖かく、ちょろちょろと漏れていく。イヴは口を押さえた。迸るはずのものを懸命に、死に物狂いで抑えようとした。やがて何も出さずに済んだイヴは、代わりに恐ろしいものを心に抱え込んだまま小さく絶叫を始めた。心ではなく声だけを流す。どんどん声が大きくなり、もう悪夢のアリに負けないほどの大音量になる。形振りなど構わなかった。己の絶叫を遠い目で感じていたイヴの底は、何かを納得していた。ギャリーの首から伸びた配線をぶちりぶちりとちぎっている混ざり者。眠っているギャリー、永遠に眠るギャリー。全部知っていた。知らないはずがない。九年も生きれば、道端で死んだ猫からいろいろなことを推察するようになる。イヴの賢かった心は全てを見通しながら、だけど見たくないから無視していた。知っていることについて見ないふりを繰り返し、繰り返し繰り返し、ごまかして薄めて、そうしてイヴはここまで来てしまった。


 混ざり者はよくわからない顔で、ギャリーの生首と絶叫を続けるイヴを交互に眺めていた。やがて混ざり者が心得た顔つきになると、イヴの眼前にギャリーの生首を押し付けた。ぐいと胸に首が押し当てられ、随分と小さくなったギャリーが、両手で持ち上げられる彼がイヴのところにやってきた。間近で見たそれのせいで彼女が失神する頃に混ざり者は立ち上がり、イヴが元来た扉の方角へと歩いて行った。


 イヴは知る由もないが、混ざり者は既にイヴのことを彼女と認識しておらず、これから九歳の少女を探しに行く所だった。ウサギと青い人形とを混ぜこぜにした悪魔はイヴを見つけたら最終的な殺害を前提として嬲るつもりでいた。そうしなければいけない理由はそれの中になかったのだが、単なる習慣だった。だがよもや件の人物が己を見下ろしていたとは知らないまま、混ざり者は暗黒へと軽い足取りで向かっていった。鈍い音を立ててドアが閉まり、またイヴが一人になったことを空間すべてが告げた。



 *



 海は楽しいところ。
 いろんな生き物が寄り添いあう。
 深海だってそれは同じ。
 どこにもいけない生物たちが、みんなこぞってやってくる。
 おいでよイヴ、おいでよイヴ。
 怖くないから。



 *



 失神から覚めたイヴは、もう起き上がれなかった。目が開いても瞼を開けず、ただ無と闇の境で寝そべっていた。バラ。ギャリーのバラはどこに。彼女は青い茎をそっと握り、やわらかいトゲをなでさすった。それしかすることが思いつかなかった。自分の中がぐちゃぐちゃで、台風が過ぎていった後のように思えた。火事で家が燃え落ちた人間は、こんな気持だろうか。五分ほどそうしてようやく外を見る気になったイヴは、あれが幻でありますようにと祈りながら目を開けた。ギャリーの首はまだ転がっていて、イヴを向いていた。目は閉じていてそこだけ見れば寝ているようだ。指で突けば簡単にころころ動いていくだろうし、その時は断面もはっきり見えるだろう。イヴは何度も顔を両手で押さえては離し、その度にギャリーと対面した。横で見れば《いないいないばあ》をしているみたいだったが、イヴの正気は消し飛ぶかそうでないかの間際だった。五度目の対面で、ようやくイヴの中にある子どもの部分もそれを理解した。子どもはもう泣きじゃくってはおらず、倒れ来るビルの真下にいる表情でギャリーを見上げていた。無表情にも近い顔で、イヴは彼を手繰り寄せて抱いた。


 随分と、随分と小さくなってしまった。


 ごめんねギャリー。ギャリーを助けられなかった。頑張ってメアリーの後を追いかけたんだけど、私がライターであの子を燃やしたんだけど、もうバラは散っちゃったの。青い花びらが十枚落ちてて、だからギャリーが死んだってことは知ってたけど、分かりたくなかった。だからあの時、ギャリーみたいな奴が来たとき、ついていったのかも。逃げたのかも。きっとギャリーの側にいたかったんだ。一緒に生きたかった。ううん、一緒に死にたかったのかも。もう分からなくなっちゃった。ごめんねギャリー、ごめんねギャリー、ごめんなさい……


 もう喉が動かないで、やっと出た声は少女のものではなかった。敢えて例えるならば、魚から出る泡にも似た音だ。だからイヴはギャリーを抱きしめ、何回も謝った。お別れの挨拶をした。そうしながら自分のバラを一枚、引きちぎった。二枚いっぺんというのは、どこか惜しい気がしたから。ギャリーが悲しい目をするかもしれないから。


 思い出が割れていく。


 八歳の誕生日にイヴは誰かと誰かからプレゼントをもらった。小さくて広いもの。あれは何? フトン? ヒモ? 縄跳び? 何をもらったんだろう。誰からもらったんだろう。もらったんだろうか? 盗んだんじゃないの? あっ、ギャリーからもらった。ぼーるぺん、ううんミカン。ちがう! キャンディ! イチゴキャンディだ! イヴはポケットを探ったがキャンディが出てこない。細長くて尖った物と白くてふわふわした物しかない。放り投げた。なぜか花も持っていたけれど、いい匂いがしたから取っておいた。紫色と青色の。


 七歳だった頃の友達の送別会。ううん二歳だ。いや四歳。名前と顔が消えていく。お父さんとお母さんの声もぼやけていく。さっきイヴが手にかけた少女の顔が薄れる――名前を忘れ、笑顔を落として、溶けていく。経験したもの全てが。でもまだギャリーの顔は、さっきまで見ていた顔はなんとなくわかって髪に隠れた片目を想像できた。そこに広がるフシギな光を考えられた。かしこい光はイヴの心にあったかい飲み物をプレゼントしてくれるだろう。


 良いものをねじまげ心を壊す痛みにイヴは耐えきった。さっきギャリーの首を見た痛みに比べれば、まだマシだった。イヴの目は辛うじて正気を保っている。だけど彼女はどうしても寂しさに耐えられず、子守唄を歌いながらギャリーと自分を慰めようとした。もう自分の声が人じゃないことを知っていたけれど、悪くはなかった。あと一枚。それで全部終わる。


 さよならギャリー。すぐそっちに行くからねギャリー。


 そのイヴを止めたのは果たして何だったのだろうか。ギャリーの首がイヴでなくドアを向いていたことに気づいたことだろうか、あるいは眼前の青色ドアが開いていたことだろうか。あるいはドアの向こうから聞こえてきた、嘘偽りのないギャリーの声だろうか。彼の声でそれは確かに「イヴ! そっちはダメよ! 良くない方に行かないで! こっちに来て!」と叫んだ。そっちがどっちなのかは分からなかったが、とにかくあそこにギャリーがいる。イヴは無視するか行くべきか迷った。ギャリーの首に尋ねると、イヴの好きにしなさい、それが一番よと教えてくれた。だからイヴは起き上がると、彼についた埃を取り払い、ちょっと頬ずりした。両手でなんとか首を抱え込んだイヴは、扉の向こうに歩き出す。そこがゲルテナの世界だろうが別の世界だろうが、ギャリーと一緒にいれば、イヴに怖いものなんてなかった。



 *


 
 あら、イヴこれ何の絵か分かる?
『深海の世』そうよ、これはふかーい海の底を描いたものですって。
 イヴってこういうの平気? アタシはミステリアスな感じがして好きなんだけどね……
 あら、ほんと? 良かった! 気に入ってもらえて嬉しいわ。
 じゃあ次の絵も観ましょうよ! ええーとね……



 *



 ステンドグラスの真下を魚が泳いでいる。


 奇妙な青色の明かりが部屋を、いやホールを満たしていた。広々としたそこはイヴが何十人入っても平気な広さで、所狭しとたくさんの美術品が並べられていた。細かくチェックしていたら何日もかかってしまうに違いない。イヴとギャリーは探検することにした。壁の絵を丹念に観察したり、近づくと割れる鏡に乙女心が分からないとお話したり、飾られたオブジェの横にギャリーを置いては、意外に似合うと拍手をしたものだ。オブジェのタイトルには『疑似餌』と書いてあって意味が分からなかったのだが、そのフォルムに不思議とイヴは惹かれた。そうしていると面白いことに、下から水が溜まっていく。上の魚はどんどん数が増えていって、小さいものからクジラみたいに大きなものまでのんびりと泳ぐ。たまにイヴの近くまで降りてきて挨拶をするけれど、その度にびっくりするイヴはギャリーに笑われてむくれてしまう。だが上をじっと見てみると、魚の周りを鳥が飛び回っている。カモメからカラスまでなんでもいて、イヴは鳥と魚が共存する世界をはじめて見た。ギャリーもそう言っていた。水の嵩はだんだん上がっていくけれど動くことに支障はなかったし、胸まで、そして口まで水位が上がっても息はできた。絵に描いたものの中を通り抜けているようで、楽しい。側を歩く無個性たちがイヴの周りで踊り、壁の女たちは見下ろしながらイヴちゃんこんにちはとニコニコ笑っている。頭も髪の毛も全部水に浸かってから、イヴは自分の体に起こった不思議に気づいた。


 足が魚になってる!


 童話で見た人魚姫そのものだった。片足だけ動かそうとしても通じず、両足に力を込めてみると、ぐいとヒレが動いて素早く泳げた。イヴはもともとそんなに泳げる方ではなかったから、以前に比べるとすごい速度で動く自分自身にびっくりしてギャリーを落としそうになってしまった。オブジェたちはそれを眺めながらころころと笑っていて、一つふたつとイヴについてくる作品もあった。サメにシャチになぜかマンボウまで。すごいねギャリー! と呟くと、アタシもそう思うわと彼が答えた。イヴは魚たちと一緒に泳いだ。スピード勝負でイヴは負けたが、知恵を使ったかくれんぼやないもの探しなら、確実に一番だった。上を飛ぶ鳥を捕まえる競争でも、なぜか鳥たちが自分の方へ寄ってくるからたくさん捕まえられた。自分が誇らしくなるほどの好成績。『疑似餌』の上に置いておいたギャリーも褒めてくれている。そのうち泳ぐことに慣れてきたイヴは、ヒレだった足を人間の足へと戻し、ゆっくりと水底を歩いてみることにした。魚たちは自分たちのペースで泳いでいる。


 水のある時とない時で変化している絵を見ていると、いつのまにか隣にギャリーが並んでいた。


 手足がある。身体もある。生きたギャリーそのままの顔で、イヴに気づいた彼は見下ろしくしゃりと笑った。コートの裾はボロボロだった。


「あらイヴ、お久しぶり。目が覚めたから追いかけてきたわよ。遅れちゃってごめんね」


 ……


「なによ、ちょっと遅刻したからってそんなにむくれちゃって。可愛い顔が台なしよ? ホラ」


 ……


「もう! そんなに怒らなくっていいじゃない。はい、ごめんなさい。悪かったわ。だから……許して?」


 イヴはギャリーに抱きついた。彼女の行動がよく分からなくて困っているギャリーの腹に顔をうずめて、イヴはどうしてか分からないけれど泣いた。ちゃんとまだ涙は出てくれて、それも悲しかったり嬉しかったりして余計に泣いた。よしよし、とギャリーがイヴの頭をなでる。彼女はひたすらに、ギャリーのお腹の温かさや服の感触や、彼が生きていたことへの実感を噛み締めた。過去なんて関係ない。未来なんてどうでもいい。ここにギャリーがいてイヴを慰めてくれる。それだけが何より彼女の胸を満たした。ぐっと力をこめるとその分彼の肌が近づくようで、イヴは何度でもそうした。一時間でも二時間でもこうしていたかったけど、「はいオシマイ!」とギャリーが彼女を引き剥がした。


「もう辛気臭いことはなし! アタシとイヴがいて、お互い歩けるんだから、これでいいでしょ。……ね?」


 ギャリーがニッコリするとイヴはようやく笑えるようになり、彼と手をつないだ。その通りだった。ギャリーと彼女がいれば、もう何だって大丈夫。お父さんもお母さんもメアリーもここにいないけどそれはきっと小さな問題で、ここが海の底であることもまた些細な事なのだろう。ひょっとしたらみんなイヴのところに来るかもしれない。彼女が燃やして殺したメアリーは炭の顔で姿を現すだろう。イヴが諦めたお父さんお母さんはそのうちみんなに引きずり込まれるかもしれない。ううん、イヴが連れてきてもいいのかも。賢い彼女の頭はいろんなことを彼女に教えてくれる、悪いことはどこにもない。みんなみんな問題なし。イヴの片手に花びらが一枚だけ残ったバラ、そして片手にギャリーの手。冷たくて気持ちいい。彼が目覚めた状態で手をつなぐのは初めてだったけど、ギャリーはそれを嫌がらなかった。だからもう一度イヴは、絵がどういう風に変化しているか、ギャリーがきちんと読んでくれるタイトルと一緒に見てみることにした。


 楽しかった。このままが未来永劫変わらないとしても、楽しいままだろう。もうこの部屋から二度と出られなくても、ずっと嬉しいままなのだろう。


 イヴは幸福だった。



 現在展示会が催されているワイズ・ゲルテナ展における絵の何点かが変化したことに気づく者はいなかった。学芸員も警備員も一般の客もそうだった。


 かつて『吊るされた男』が占めていた位置には『疑似餌』が出現している事を誰も知りえなかったし、おそらく知った者は真っ先に引きずり込まれたに違いない。


 誰も知らない画期的な変化の一つに、『深海の世』におけるアンコウと海水に端緒な変化が発生した事がある。


 アンコウの突起部分には赤いバラの花びらが一枚生え、魚の周囲には青いバラが散っている。おそらくゲルテナ研究者であれば勇んで彼の業績を掘り始めることであろう。深海とバラという異種モチーフ同士をつなぎあわせた意図とは何か? そして青と赤のバラを組み合わせることに何の意味が生ずるか? そもそもバラ自体は何を意味するか? 意味がないとすれば、それを投入した意図は? 海そのものがバラを表すのか、あるいはバラが海を漂流していると見るのであるか?


 数多の神秘と驚異を湛えながら、現在もワイズ・ゲルテナ展は開催されている。


 或る日、それらを観覧にした一組の夫婦は感想をお互いに話し合いながら家路へとついた。


 彼らの間に子どもはなく、妻は子宮の病気で生殖不可能だった。


 夫や妻の間に子どもを連れてこうしたイベントに参加したいという願望はあったが、お互いにそれを口に出すことはない。それはお互いの人生における反響が示し合った結果だった。


 二人は、このまま養子も持たずに一生を終えることを半ば予期しながら家路へと着く。


 夕暮れは昼の残滓を投げかけながら二人に光を、そして展示会で目にした深海の重さを改めて告げるだけだ。
復路鵜
2013年04月19日(金) 10時00分18秒 公開
■この作品の著作権は復路鵜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
『Ib』というフリーゲームの二次創作です。
ギャリーが眠った後、
メアリー焼失後、
イヴが絵の前で誰かに連れていかれた後のお話です。
完全にネタバレなので、ゲームクリア後の閲覧が推奨されそうです。
汚い物に注意。

この作品の感想をお寄せください。
すごいおもしろかったー 50 イヴちゃんマジ天使 ■2015-10-29 16:50:03 121.105.92.57
始終涙を流しながら読ませて頂きました。
最後の、イヴとギャリーが幸せそうに笑いあっている場面が
目に浮かぶようでした。

…本家様よりも怖かったです(*゜∀゜*)
10 悪意のない中一 ■2014-08-01 21:34:56 183.77.66.150
>忘れられた通行人さん
感想をありがとうございます。というか作者自身ですら先ほど見かけたというウカツ……!
このイヴをとりまく状況は劇的と病的を併せた代物と成り果てたのでしょうが、彼女はおそらく永遠に幸せでしょう。それとギャリーも。
メアリーはおそらく燃えたままなのかもしれませんが、どこかでひょっこり姿を表しても良いのかもしれません。燃え滓みたいな顔で。
いずれにせよ、読んでくださりありがとうございました!
10 復路鵜 ■2013-07-18 19:36:33 106.174.68.57
素敵なお話をありがとう。
たまたま見かけたページだったけど読んでよかった。
50 忘れられた通行人 ■2013-06-15 01:15:29 61.124.237.96
合計 120
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