【オリジナル】流れる手紙のように

『流れる手紙のように』
※五つの掌編よりなるオリジナル作品です※
※作品順序は
1.【カスイ】
2.【マカとハナコ】
3.【デウス・エクス・マキーナー】
4.【姦し姦し女二人】
5.【ミラクルまたは最終便】
となっております※
※暴力描写・グロ描写は基本的にありませんのでマイルドにお読みいただけます※
※ごゆっくりお楽しみください※






【カスイ】
 跳ね上がる水は、躍動そのものだった。


 固定済みの円筒から吹き出した固形に近い水が、空中を彩る。着色された水が一つの塊となり、空中何十メートルへと打ち上げられていく。ぽん、ぽぽん、と爆発に似た音と共に弾けながら、水が空の中で割れては消え、分かれては下の川へと落ちていく。破裂の中に織り交ぜられた光が夜空を輝かす。既に数時間前から始まっていた打ち上げにおいて、一つのクライマックスを迎えつつあった。


 星形の水が空に色を描いては落ちていき、丸や笑顔を象った水が、爆ぜる瞬間を待ちながら円筒の中で鎮座する。これは、数百年間続いてきた祝祭の最終日に行われる儀式。


 名をカスイと呼ぶ。


 花のように水を打ち上げることからそう名付けられた。水を扱って芸をする事はそれほど珍しい事ではない。だが水の塊を大々的に打ち上げ、そして人の目に快く見える形で破裂させる儀式は他地域では滅多に見られないという事で非常に人気があった。南にある別の市ではこのカスイに対抗して別種のカスイを打ち上げており、こちらも独自の打ち上げ方式が見物客を呼び込み、毎年この地区には全国から多くの人間がやってきていた。


 カスイに用いられる水は普通のものと違って特殊だ。詳しい製法はカスイ師の秘伝中の秘伝とされており公にはされていないが、水を用いた射出は術学と格物学、そして舎密学の産物である。簡単に言えば、特殊精製された水を液体化する粉末と共に容器に注ぎ、筒に入れる。容器と筒には既に打ち上げ用の術が行使されているので、単純な準備はこれで済む。しかし実際には、打ち上げられた水をより奇抜な形であったり、不可思議な色に変わるよう調整しなければならないため、粉末の配合量であったり、あるいは容器の大きさや厚みに術の模様など、調節すべき点は多い。一つ間違えれば、星形の水を打ち上げる予定が形が崩れた物になったり、あるいは水鉄砲のように味気なくなるため、カスイ師は打ち上がるその時まで緊張感を保つ必要がある。同様に安全対策も重要である――カスイの暴発によって数名が肋骨骨折などの重軽傷を負った、四年前の事件は記憶に新しい。現在では打ち上げ直前に行う筒に行使する術のトリプルチェックが、大勢の術師が集まり大規模で見た目も派手な事から、新しい見世物になっている。


 だから彼は、まじないを唱えてインクのような術式塗料に浸された手を振りながら、容器や筒にチェックを施す術師の姿を、拳に汗を握って見つめている。カスイ師以外立ち入り禁止のテープが張られた外側では、見物客らがオーディオフォンの写真機能を使うシャッター音だったり、あるいは騒ぐ歓声が聞こえてくる。頭が汗ばみ、身体は針で突き回されているように痛い。緊張するとすぐにこうなる。眉を潜めてそれを無視しながら、果たして眼前の自分の作品が鑑賞に耐えうるものなのか、それとも無残な失敗作となってしまうのか、思考ばかりが巡って身体に張り巡らされた緊張を消し去る事ができない。


 やがて黒い大きなローブ(流行遅れの筈だが、恥じらう様子もなく堂々と身につけている)をまとった術師が動きを止めた。半ばダンスめいた術行使の儀式だったが、それもようやく終わりに近づいている。術師は発光水が収められたカンデラの透明な光を浴びながら、容器と筒に交互に触れていく。その手つきが魚の動きを思わせた。数多くのカスイが打ち上げられる祝祭だが、彼が受け持つ区間はほんの僅かでしかない。他の区域の術師はもう点検を終えているだろう。それなのに、彼を担当する術師はこんなに時間がかかっている。歯噛みし、喉が鳴った。そして一体どうしてこんなに自分はむず痒がっているのだろう、と自問した。まるで子どものようだ。自嘲しようとするが、笑みさえ浮かばない。


 騒音や歓声などのざわめきはやかましいが、彼の周囲に人はいなかった。助手もいず、師匠と呼べる存在もいない。元来、カスイ師というのはそれほど人との関わりを持たない。芸術家や職人のように人に師事する事はあっても、こうした打ち上げ――つまり本番だ――の時には、いつも一人だ。激励も叱咤もなく、孤高とも孤独とも言えた。工房にこもって水の彩色を弄り、カスイの青写真を描く時も一人。そして彼はまだ若かった。この世界においては例外と言える程幼く、そして自分の能力に大きな自信と大きな不安があった。


 そんな自分がどうしてクライマックスという大局を任されるようになったのか。そこまで心が向かって彼は自虐的に笑った。バカバカしくなるほど単純で虚しい理由だ。家族による捩じ込み。彼の父は国に仕えており、持っている権力は非常に幅広かった。母は研究員で、多くの著書を出していた。兄は放送媒体によく出る有名人で、世間に顔が広かった。家族の豪華さとは逆に、人付き合いの苦手さからカスイ師の道を選んだ彼に対して彼らは猛烈に反対したが、無理やりにやらせた仕事で失敗続きになり、あえなく落伍した彼を見て、渋々とその道に行くよう勧めた。そして始まったのが、猛烈な後押しだ。それなりに芸術的才能はあったが、新米であった彼がカスイ師組合で舐められないよう、あらゆる方向から手を回した。多くの仕事を優先的に回すよう(そもそもカスイ師にはそれほど日常的に仕事があるわけではない)、彼の才能を徹底的に売り込んだ。他地域で活動する腕の良いカスイ師を見繕い、その下で働くよう彼に勧めた。怒号と鉄拳と無視が日常茶飯事の師弟関係は彼が夜逃げした事で終わったが、家族の援助は終わらなかった。他の仕事人からの嘲笑や罵声とは裏腹に、彼の評価はどんどん上がった。取材が相次ぎ放送媒体に出た事もあった。その果てにこれだ。祝祭におけるクライマックス。一世一代の晴れ舞台。


 同時に押し寄せてくる張り裂けるほどの不安。場違いな場所に来てしまったという間違いの感覚。ここにやってきた自分が正しかったのかという度外れなふらつき。こうして外部からの最終チェックが入っている中、不安は最高潮になりつつあった。彼もまたチェックを何度か行っていたが、それが正しいと言える根拠はなかった。ここで行われるのは数百年の歴史を誇る、由緒ある祝祭の最高地点。――もしここで失敗すればどうなるか。


「大丈夫ですか」と言う声が耳を貫いて彼はのけぞりそうになった。危うく声を上げそうになったが、目の前にいたのは術師だった。どうやら処置は終わったらしい。


「ああ……いや、大丈夫です。ええ、大丈夫です。はい」


彼はつとめて深呼吸しようとした。半分ほど失敗していたが、それでも努力はしていた。胸の奥底からじんわりと滲んでくるものを見ないよう、心を逸らす。胸がムカムカして吐き気がした。


「隣、座っても宜しいですか」


一瞬何を言われたのか分からなかったが、とりあえず頷くと、術師が横のシートに座り込んだ。声を聞くに、どうやら女性らしい。自己紹介もされた筈だが全く覚えていなかった。辺りは打ち上げを終えたカスイ師や控えている職人の喧騒で騒がしい。それでも今現在の発射は対岸で行われているので、話すらできない程ではなかった。カスイの打ち上げは爆発とは異なり、水が割れる砂めいた音が響くだけだ。その静けさに反比例した絢爛さから、夜空をさんざめく沈黙の芸術、とも呼ばれている。


「綺麗なカスイですね」


術師が言った。世間話のつもりかと思ったが、彼は首を縦に振った。現在はスターシャワーという、ハート型や家の形を模したカスイが打ち上げられている最中だ。子どもの時は、よくカスイを見ては目を輝かせていた気がする。特にスターシャワーのような、滅多に見られないものはなおさらだった。そうですね、と返事を返す。


「きっとあなたも、あんなカスイを打ち上げてくださるのでしょう」


「よしてくださいよ、僕は――」


言いかけて詰まった。自分は何なのだろう。カスイ師になると誓って、ここに来たのではなかったか。自分の技量に納得して、ここまで来たのではなかったのだろうか。その先を継ぐ事ができずに、黒ローブを見つめる事しかできない。スターシャワーの飛沫がほんの少し、二人の間に降り注いだ。この水は飲用には適さないが、触れると良い事が起きると言う噂があるから当日は早くから人が詰めかける。


「思う所が、あるのですね」


術式を用いたアナウンスが入る。祝祭では大いに水が使われるため、電子機器の持ち込みは奨励されていない。主催者側が用いるのは、電気を用いなくても良い術式だ。五歳の誰々が迷子になったらしい。


「いやそんな事、誰だって」と彼は言った。その先も言えなかった。拳を握りしめると、息を抜くようにため息をついた。どうしてここまで優柔不断なのだろう。顔を掻いて彼は言った。


「不安なんでしょうね」


 術師がこちらに顔を向けた。


「僕が担当するのは、クライマックスの打ち上げなんです。自信作を用意しましたし、きちんと準備したつもりです。けれども、自分にそこまでできる実力がないのはわかってます。打ち上げの経験も、両手で数えるぐらいしかない。自分がどこにいるのか分からないんです。叱られたり、殴られればすぐにへこたれる人間です。そんな人間だからカスイ師ぐらいにしかなれなかった、って言ったらカスイ関係から怒られるでしょうね」


 今度こそ自嘲した。術師はじっと話を聞いている。


「昔から人付き合いが苦手で、どうしても人間に馴染めなかったんですよ。そのくせカスイだけは好きだったから、それ関係の職業に就いた。それぐらいなんです。家族が後押しをしてくれたからここまで来た……というより、連れて来られた、と言った方が正しいんでしょう。能力もない若造が一体なんだ、って職人からは馬鹿にされて、変な形でテレビに出てはカスイ界の若きエースとか言われて、雑誌でもチヤホヤされて……そのくせ、自分が足りないのは自分自身が一番分かってるんです。それでもここまで来てしまったから、やるしかないんですけどね」


 彼は天を見上げた。星空に散っていく水の欠片。落ちてくるカスイの残骸。あまりにも理想が遠い。現実に比べて茫漠としすぎていて、彼の芸術が形を持つように思えなかった。


「大丈夫だと思いますよ」


 術師の声は、やけによく通った。


「私はきちんとあなたのカスイをチェックしました。安全面では問題ありませんし、配色も独特で、模様も豪華でした。こう見えても、けっこう経験してきてるんです、私」


 術師はさりげなく胸を張ったように見えて、彼は小さく笑った。それから、こうして自分が笑える事にやや驚いた。


「それに、今日は祝祭です」


 術師は言葉を続けた。


「今日は水の神様をお祝いして、水と一緒に育った人類とその産物にお祝いする、大切な日です。一年に一度しかない、奇跡的な日なんです。そんな日には、普段は起きない出来事が起きても、不思議じゃないんです」


「奇跡的な日……?」


「そうです。奇跡です。――このように」


 いつのまにか術師がすぐ近くに寄っていた事に、彼は最後まで気付かなかった。え、と思った途端、術師が彼の節くれだった汚れた手に触れていた。パチン、と目の中で光が弾けた。


 筒の中から、噴出する水と同時に空高く打ち上げられるカスイが見えた。次第に高度を増していき、何十メートルという、他の地域からでも見える所でそれが弾けた。彼が作った作品の筈なのに、想定よりも遥かに静かにはじけ飛ぶカスイ。鮮やかに消える水の花。円の中で緑が、青が、赤が、そして橙がきらめく。落ちていくカスイが形を変えて、鳥の形になった。この地域を流れる巨大な川に落ちたカスイが、その激烈さを失いながら魚になる。橋の上にいる人だけが捉えられるメタモルフォーゼ。星とその中の小さな星。細かいカスイを混ぜて、途中で巨大な一発――二十四色四十八色のカスイが、彼の小さくなっていた想像よりも大きく、輝かしく震えながら弾ける。彼が子どもの時に夢見た物がそのまま、あれ以上のきらめきを持って迫ってくる。特産物の果物や花、術のイメージ、そして川を流れる船。人と人を模したカスイ。彼の脳裏を駆け巡る幻は、耐え難いまでの高揚と魅惑を、そして激烈な成功をもたらした。あらゆる陰口、あらゆる援助という名の腐敗の手を押しのけ、彼一人で作り上げた、勝ち取ったものが目の前に現出した。描いた青写真、配合した色彩、そして輝き。くだらない不安を消し飛ばす。その夢は、あなたは最高の作品を作ってくれた、と産み主のカスイ師を讃えていた。雄々しく夜空に咲きながらも、子が親に愛を寄せるように作品は彼に情を寄せていた。彼は涙すら流しそうになりながら、その幻を見続けた。
 やがて煙が晴れるように幻は消えていく。自身による大傑作らは彼の胸の中へと消えていき、残ったのは現場にいる彼と、これから打ち上げられるカスイだけ。ずっしりとした自信を感じながら、彼は口を閉じた。頬を叩いて気合を入れた。自分がこれらを作ってきたのだ。ならば芸術家こそがしっかりしていなければ。きっと成功する。そう思いながら彼は立ち上がってカスイの元へと歩み寄る。喧騒とざわめきに包まれて、彼の子どもたちはそこに確かに在った。


 ついさっきまで横にいた術師の事など、記憶の底から消え去ってしまっていた。






【マカとハナコ】
 うなあ、と遠くで鳴き声が聞こえて少女は後ろを振り返った。


 けれども後ろには何も見えず、ただ遠ざかる影のような人混みとカスイの群れが見えるだけだ。ざわめきに混じって、ぽしゅ、ぽしゅしゅとカスイが静かに打ち上がる音だけがやけによく聞こえる。どうかしたの、とお母さんが言うが、やっぱり何度見回してもさっきの鳴き声を聞けなかった少女は、ううんなんでもと返した。繋いだ両手が温かい。


「でも早くに出たのはやっぱり正解だったな。このままタクシーを捕まえて帰れば、渋滞に捕まる事もないだろう」


 お父さんが言った。彼女と繋いでいない方の片手は、おみやげや少女が残した飴菓子が握られていて忙しない。彼女は大きく欠伸をした。


 三人が祝祭にやってきたのは始まる数時間前だ。川べりにシートを敷いて、昼寝なり何なりをして祭りが始まるまで待っていた。酒盛りの音がうるさくて、ああいう人間になっちゃいけないよ、とお父さんは少女に優しく教えた。それから大勢の人たちが詰めかけた。放送に騒音そしてカスイ。祭りも終わりに近づき、少女は最後までカスイの打ち上げを見たがったが、早く帰れば混雑に巻き込まれずに済むと両親が反対し、こうしてクライマックスのカスイが打ち上がる前に三人は家路に着いたのだ。行きは水陸両用列車だったが、帰りはおそろしく混みあうと予想されたので、個人タクシーに乗ることにした。少女は鼻を曲げたが、帰り際にべっこう飴で作ったお菓子と、お隣のコギさんがカスイを撮ってくれてる、と聞いて、少しおとなしくなった。


「でも、あのカスイ綺麗だったわよねえ。丸になったりニコニコマークだったり。私、今年のスターシャワー見て感動しちゃった」


「そうだな。それに今年のラストは、雑誌でも注目されてる若いカスイ師が打ち上げるらしいし……お父さんも早く帰って見せてもらいたいよ。コギさんがちゃんと撮影できてればいいんだけど」


「まあ。だったらあなただけ残れば良かったのに。私はマカと先に帰ってるわ。あら、マカも欠伸しちゃって。早く寝ましょうね」


「ひどいことを言うなあ」


 そのまま二人は他愛のない会話に熱中していたが、少女――マカだけは何度も後ろを振り返っていた。また背後から鳴き声がした。聞き覚えのある声が。二人の様子を観察してみたが、お父さんお母さんは話をしているばかりで気づいた様子はない。自分だけに聞こえるのかとマカは密かに背筋を震わせた。覚えがあった。


 少女の家にはかつて飼い猫がいた。ハナコ、と名付けられた三毛猫だった。お父さんが拾ってきたらしいその猫は、彼女が産まれる前から家にいた。マカが育つ傍らで猫は欠伸をし、じっと彼女の動きを見守っていた。別段近くにいる訳ではなかったが、お父さんが仕事に行ってお母さんが家事をしている間は、ずっと目の届く範囲にいた。尾が三つある静かな猫。マカは何度も尾を掴んでみようとしたが、ことごとく失敗した。ハナコはその度に鳴いたので、つられて彼女も鳴いてみた。


 うなぁ。


 うなあぁ。


 その時と同じ声が、今この時、ひたすらに後ろで少女に呼びかけるように鳴いている。そしてもう一度、うなあ。彼女は身を震わせた。そしてお父さんとお母さんを見上げた。二人はマカをたまに見下ろすぐらいで、ずっと前を向いている。夜空にカスイが打ち上がる。人のざわめきが耳に遠い。猫の鳴き声は近くなる。彼女は、一つの決断を下した。


 するり、と二人の手から彼女の手が抜けた。力を抜いたらあっけなかった。なぜか二人は気づかない。二秒、三秒。疲れているのか、それともおみやげが重いからか。ハナコがそうさせたのか。その瞬間、少女は真の意味で迷った。これからどうすべきか。二人の元に戻るか、それとも――


 うなぁ。


 マカはためらいがちに声の方向を振り返った。川べりと暗闇と、人がやや少なめの方角から聞こえる声。もう一度少女は目の前を見て、後ろを見て、それから後ずさった。そして少女は駈け出した。両親がマカに気づいたのは数秒経ってからだろうが、もう少女は闇に消えていた。




 初等学校の半ばで、ハナコが病気だと両親から教えられた。今はお医者さんに通っているのだとも告げられた。どんな病気か教えてくれたが、難しい内容なのでよく分からなかった。だけどマカの目に、ハナコはそれほど変わったようには見えなかった。いつも通り静かで、いつも通り彼女を見つめていた。けれども動きが少しずつゆっくりとなり、やがて動かなくなっていった。だけど少女に尻尾は掴ませなかった。触ろうとするとするりと抜けた。うなあ、と囁いた。


 ハナコが消えた事に気づくまで、マカは暫く時間がかかった。最初はどこかに出かけたぐらいにしか考えなかったから。二人は、ハナコは病気が良くなってきたから、ぶらりと長い散歩に行ったんじゃないかなと言った。作り話だと思った。ハナコは彼女を置いていく猫ではないし、まだハナコの尾を掴んでいなかったのだから。彼女は泣かなかった。けれども自分でもよくわからない感情が二人に芽生えて、時折夢の中でお父さんとお母さんは彼女に屋根の上から投げ落とされたり、ダンボールに詰められて町中に置き去りにされていた。その程度だった。


 だけど今、彼女はハナコの声を聞いた。そして走っている。


 これまで歩いてきた方角とは逆方向へ。川べりは人が多いからそこからズレた道を走って行く。焼き菓子の屋台や水菓子の群れを通りぬける。術師の腕章をつけた人。売り子。見物客。夜空で打ち上がる何かに歓声を上げている生き物たち。そこらに投げ捨てられたゴミと食いカス。全て無視して彼女は駆けた。たまに少女に気づいた大人が声をかけようとするが、マカは無視して走り去る。テントの脇を通り抜け、警備員の制止の声を聞かずに彼女はひた走った。ハナコのために、呼びかける声のために。駆ける駆けるもっと早く。


 やがて少女がたどり着いたのは、祝祭の会場から程遠い場所だった。二十分も三十分も走っただろうか。身体が汗だくで髪についたヘアピンが鬱陶しい。戻ったらきっとすごく叱られて、すごく怒られるだろう。だけど今はハナコが呼んでいた。そこは大きな橋のすぐ真下で、上を走行車が走る轟音が時折聞こえてくる。人は誰もおらず、会場から遠すぎて見回りの人もやってこない。彼女は息をつくと声を頼りに川の近くまで行った。


 大きな川には水がとめどなく流れていた。術によって透過処置が施されているここは、夜でも底が見えるほど綺麗だ。顔を洗いたくなった彼女だが、我慢した。うなあ、とハナコの声が聞こえて少女は息を飲んだ。このすぐ近くにいる。近くに――


 視線の先、川の中から何かがのっそりと姿を現すのが見えた。毛皮から水をほとほと滴らせ、地面を水で濡らしながら、それが彼女の前に座り込む。なぁ、とそれが上質な布を弾いたような声で鳴いた。ハナコ、とマカは呟いた。それが返礼になると思ったから。


 疑いようもなくハナコが目の前にいた。マカは最初まごついた。どうすれば良いのか迷った。割り込む誰かはいない。ハナコは何を望んでいるのか。戸惑っていると猫が後ろを向いた。すると彼女の目の前に三本の尻尾が差し出された。ススキのように長くて細い、立派な尻尾。あの頃から変わっていない三つの尾。マカはおずおずとしていたが、どこかで声が聞こえた気がした。


 握ってもいいよ。


 間違いなくハナコの言葉だとマカは確信した。水を滴らせた尻尾が、それ自体が別の生き物のようにするり、するりと動いている。見ているのは楽しかった。きっと握る事ができればもっと楽しくなるに違いない。これまでできなかった事ができれば、きっと何かが変わる。だから――


「はい、そこまで」と声がして、マカの肩がぎくりと跳ねた。


 振り向いた視線の向こうに、黒いローブを被った人が立っていた。術師だ、とマカは思った。社会の教科書で写真を見たことがあるし、職業体験談で術師の話を聞いたこともある。だけどこんな所にいるとは思わなかったから、マカは咎められたような気持ちで手を引っ込めた。どこから来たのかわからない術師は、けれどもマカとハナコをぴたりと視線に収めて、するするとこちらに寄ってくる。ハナコは突然の闖入者に驚く様子はなく、静かに尻尾をマカの前で揺らしていた。猫が口を開けて欠伸をする。


「迷い込んだ……訳じゃないわよね。そう、奇跡の夜だから出てきたの。一時的に追い出されたのか……ああ、自発的に出てきたのかしらね。猫神はこういうのに寛容だし。でも少しは水神にも声を掛けてくれても。そう、他にも」


 術師の人はマカにはよくわからない事を呟きながら、ハナコの横にやってくる。そしてマカには目をくれず、手袋をすると猫の背中に触れた。上から下へ、頭から尻へ。ハナコは抵抗しなかったが目を細めていた。


「あの……術師さん」


 マカは小さく口を開いた。自分でも思うほど自信なさげだった。


「ハナコの尻尾、触っていいですか」


 術師はそこで彼女に目をやって、首を横に振った。


「多分、あなたが触らない方がいいと思う」


 その返事に、マカの心が燃えた。自分が積み上げて来た物があと一歩の所で崩された気分だった。術師に寄ってローブを掴み、引っ張った。術師は片手の手袋を外すと少女の頭を撫でた。


「ごめんなさい。でもね、この子……もう死んでるから。あなたみたいな生きてる子が触れると、飛び火しちゃって境界が曖昧になると思う。そしたら、あなたもこの猫も、どっちも混ざっちゃって……不幸になると思う」


 うなぁ、とハナコがまた鳴いた。今度はやや高めの声で、注意しているような言い方だった。術師は困ったように猫を向いた。


「私は別にそんな積りじゃ。あなたの気持ちも分からなくはないけど……ああ、そうだ」


 術師は手袋を外すと、それをマカに差し出した。白くて薄い。透明のようにも見えた。


「これをはめるなら、触ってもいいわよ。少しは和らぐと思うから」


 言われるがままにマカは受け取り、はめた。手首から先が薄くなったような、奇妙な感じがした。


 そのままハナコに手を伸ばす。最初は頭を触ろうかと思ったが、やっぱり尻尾に触れることにした。長い尾をひっそりと掴んでみると、ハナコが欠伸のような声をもらした。もう片方の手で、ハナコの余った尻尾を掴んでみた。はじめて触れる心地としては、薄いというよりは、消え入るような感触がして、あ、やっぱり死んだんだ、とマカは思った。死体を見るよりも、他の誰かから教えられるよりも、何よりも明白な感触に、マカは心の底から納得できた。どうして死んだのか、聞いてみようかとも思った。きっと今のハナコや術師の人なら、教えてくれるだろう。けれどもそれは、何か触らなくても良い事に触れるような気がした。いずれお父さんやお母さんが伝えてくれるだろう。


「ハナコ」とマカが猫の頭を撫でると、お化けそのものの感触でハナコが応えた。マカを見つめながら、ぐるぐると喉を鳴らした。それからふいとマカの手から離れると、ハナコが向こうに歩き始めた。術師の人がついていく。どこに行くの、とマカが大きな声で叫んだ。


「もうあなたが知るべき事は知ったの。この子は帰らなきゃいけない。今日は神様を祀る奇跡の夜――それが終われば、不思議な出来事も終わらなければいけないから。もう、この猫に会えるとは思わない方が良いわ。私は、この子が帰るお手伝いをするから」


 手袋は川に流してくれれば良いわ、と術師は言った。マカはハナコに手を振った。それを見ていたのか、闇の向こうを見つめていたハナコが、マカの方を向いた。


 にぃ。


 それを聞くとマカの目にたくさんの涙が溜まってどんどん溢れてきた。彼女は涙を流しながら、にぁ、とあの時のように鳴いた。するともう一度だけハナコが鳴き、それきり猫の声は聞こえなくなった。やがてマカも泣き止んだ。闇の向こうに目を凝らすと、背の高かった術師の人もハナコも消えていた。マカは外した手袋をそっと川に流し、水で顔を洗った。涙と一緒に心も水を被ったようで、自分が消えていく心地がした。だけどマカはまだ死んでおらず、ハナコだけが静かに旅立った。多分マカはまだ向こうに行くべきではないし、ハナコは望んでいない。もう一度顔を洗う。マカは最後にこう思った。


 さようなら、ハナコ。






【デウス・エクス・マーキナー】


 祝祭の終わりを告げるアナウンスは、案外あっけないものだった。


「これをもちまして、第――祝祭を、――終わり、ます。繰り返します。これを――まして、第――回――を、終わります」


 ざりざり、と拡声用の術にアコーディオンめいたノイズがかかった声で、しめやかに終わりが告げられた。人々の反応はそっけないもので、混雑を避けてまだ川べりで酒を飲む者や川にこっそりとゴミを捨てる者、係員の誘導に応じてぶらぶらと歩き出す者など様々であった。繰り返し放送される終了の合図によって、人々の興奮と満足が徐々に静まっていく。帰り支度をはじめていた人や、既に家路につく人の後ろに列ができて、一気に沿道は人間でいっぱいになった。走行車の通行も制限され、あちこちでクラクションが鳴らされる。上空を飛び回る術式ヘリと油圧ヘリが帰って行き、祝祭やカスイを放送するためにやってきた放送局も撤収準備をはじめる。だんだんと場のムードが下がっていくのを感じながら、若者はひっそりと橋の下へと入っていった。


 打ち捨てられたゴミは様々だった。ペットボトルであったり空の弁当箱であったり、丸められたティッシュもあった。川を手袋が流れていた。そうしたゴミを横目で見ていた彼は、するすると足を川に沿って進めていった。担いでいるのはリュックサック、そして手には空のペットボトルが握られていた。軽いとは言えない足取りで、少しずつ若者は足を進める。どこを見ても賑やかさでいっぱいだったが、何十分か歩いているうちに、だんだんと人で作られた結び目がほどけていくようだった。


 何キロも歩いて若者がたどり着いたのは、港の近くだった。背後には祭りの雰囲気が粉のように残っていたが、しかし彼が歩いて行くに連れて、徐々に祭りの幻想的な後味というのが薄れてきた。風呂から上がるように熱気が冷めていき、神経が平になっていく。風こそ吹いていないが、何やら潮のような匂いを彼は感じた。遠くの対岸にはビルの明かりが灯っており、海の向こうはただ静かだった。行き交う漁船の姿も見えず、傍行く黒い波がゆっくりと押し寄せてくるだけだ。岸壁の上に立ってみたが、思ったより高い。少し距離を戻って、ちょうど足が海水に浸るぐらいの高さの場所を見つけた。その場に座り込むと、全身が潮に満たされた気がした。鼻や耳から塩気が入って、海は純粋な水とは違うのだと思わせる。それでも彼にためらいはなかった。空のペットボトルの蓋を開けると、それを海水に浸した。


 手が水に染み入る感覚は心地よかった。岸の上に寝そべり、そこから思い切り手を伸ばしているので若干身体が不自由だし見栄えもしないが、誰かいるわけでもない。半分ほど海水がボトルを満たしたのを見た彼は、もう少し深くまで浸すことにした。ごぽぽ、と空気の泡が海水に浮かぶ。ここの海の底にはどれくらい魚がいるのだろうか、と彼は思った。その魚たちは、海に突然入り込んできたボトルを見て、何も思わないだろうか、とも。海に身体の一部を突き込む作業は、何か息つくものを感じさせた。そうして一本目のボトルにほぼ水が入った。引き上げるとなかなか重かった。


 二本目を入れようか、と思った所で、彼は見つけた。ボトルの中に、海水とは違うものが揺らめいている。きらきらとしているそれは金粉を思わせたが、どちらかと言えば砂に近い。さながら、純金のような――


「こんばんは」と後ろで声がした。声に驚いてボトルを落としそうになった彼だが、すぐに体勢を整えると起き上がった。後ろで黒いローブを着た人が立っている――術師だ。それにしても、こんな古そうな服装、今どきの術師(たいていみんな作業着を着ているか、もっとカジュアルだ)が嫌がりそうなものを着ているなんて。いや、それよりも。


「……こんばんは」と若者は、塩気を含んだ風に声をにじませた。改めてここが港なのだと知る。


「こんな所で、どうしたんですか」


「それはこっちのセリフです」と黒ローブは返した。声の調子からすると女性のようだ。しかし着ている服装も服装で、特徴がぜんぜんつかめない。


「あなたこそ、こんな所で水を採取したりして。法律知ってますよね? この地域の水は、海水真水に関わらず採取に許可が必要ですよ。こんな夜中にひっそりと取るなんて、罰金モノですね」


 水の都を自認するこの都市の水に、不可思議な物体が混じり始めたのは何時であったか。農業を主としていた時代にも遡るらしいその物質は、とある農民が泉の水を桶で掬った際、底に溜まっていた物に気づいたのが始まりと言う。純金めいて小粒なそれは当初毒であると忌み嫌われたが、無謀な誰かが口にしてみると不思議に体調が良くなった事に気づいた。特定の疾患を軽減させ、解熱作用や抗鬱作用があると解明されたのは後年に入ってからである。不思議とこの地区にしか見られないこうした水は、現代に入ると術に用いられたり、加工して商品にするなど利用価値が高まった。研究も盛んになったこの水は当然のように持ち出しが絶えなくなったが、とは言え資源自体が無尽蔵ではないとの地区の判断により、何枚かの書類と使用意図の記入によって持ち出しが可能になった。しかし常に川や湖に監視員がつくわけにもいかず、またどこの河川や溜池でも物質がとれるので、法律自体が半ば有名無実化しているのが実情だが――
「こうして術師の目についた以上、放っておくわけにはいきません。それを破棄してもらいますが、どうしても欲しいんだったら、明日最寄りの区役所まで来て下さい。書類を書いてもらえば、監視つきで採取が可能です。だいたいそんな海水を取ってどうしようと言うのですか。術加工しなければとても飲めたものじゃありません」


 若者は俯いた。威勢を押し出そうというように腰に手を当てた術師の前で口を開こうとするが、うまくいかない。ボトルを地面に置きはしたが、かといって納得した顔でもないらしい。こういう時は無理に規則を通しても良いが、術師は敢えて尋ねることにした。


「……何か、事情があるんですか」


 術師が水を向けると、若者は顔を上げた。半ば欠けた月が見下ろす中、湿った空気の中で彼は口を開こうとした。それも諦め、やがてポケットから手帳を取り出すと、挟んでいた写真を取り出した。術師が受け取るとそこには若者と思しき人物の横で、半ばふてくされたような顔でレンズを見つめている女の子がいた。


「……妹なんです」と彼は言った。


「心臓が悪くて、明日、大きな病院で検査するからこの地区を離れるんです。でも、難しい病気みたいで……別の医者に罹ってましたが、そこは匙を投げました。この祝祭にも来たがったんですけど、外には出られないから、僕がビデオ撮影して……この水は、母が術をかじってるから、飲めるようにしてもらおうと思ってました。そうでなければ、お守り代わりです。決まるのが急で、申請する時間もなくて……すみませんでした」


 若者は頭を下げる。術師はそれを暫く見ていたが、やがて潮風の中にはあ、と息を吐いた。


「そういうことでしたら……という訳には、残念ながら行きませんね。こう見えても、国からお給料を貰っているので、その分は仕事をしないといけないんですよ。ただまあ、情状酌量はアリと言えますか」


 若者が顔を上げると、術師は何か後ろめたい事があるかのように顔を逸らした。


「とりあえずそのボトル、下さい」


 術師が手を差し出すと若者はややまごついた。が、やがて圧力に耐えきれなくなり、おずおずと術師にそれを渡した。術師がボトルを黒ローブに包まれた額らしき場所に押し当てると、何かの言葉を唱え始めた。海がざわめき空気が震えた気がした。


「まが……ことをりな……そわ、か……とはに……」


 途切れ途切れに術師の言葉が聞こえてくると、なぜか若者は身震いしはじめた。肌に鳥肌が立っているのが分かる。眼前の現象が術師による術の行使だということはわかっているのに――


 本当にそうだろうか? これは、術なのだろうか? 


 どこからかやってきた一抹の不安が、唐突に若者の身体を満たした。


 やがて術師が顔からボトルを離した。中はうっすらと金色を放っているようで、どこかしら艶めいていた。それは金箔を中に散りばめたようでありながら、それでいて水全体に金色の絵の具を溶かしたようでもあった。一体何をされたのか、このボトルの中身は本当に水のままなのか、若者には理解できなかった。中で泡がごぽりと蠢いた。


「……それ、帰ったら妹さんに飲ませて下さい。必ず今日中に飲ませてくださいね。全部飲ませたら、いちおう普通の水も飲ませた方が良いです。明日あたり、検査すれば……多分、病気は全部なくなってると思うので。もし持病とかあれば、それも治っていますから。あと、当たり前ですが……これは他言無用です」


 淡々と言葉を並べていく術師に、若者は瞠目とも驚愕ともつかない目を向けていた。それからボトルをリュックに入れようとして、手が震えている事に気がついた。彼はそのまま、自分の好奇心に任せて口にする事もできた。だがそうせずに、考えていた事とは逆の事を尋ねた。


「どうして……どうして、こんな事をしてくれるんですか? その、見ず知らずの……僕のために」


 若者の言葉に、黒ローブはやや困ったような顔を中空に向けたり、頬を掻いたりしていたが、やがて答えた。


「それはですね、……今日は、祝祭の夜じゃないですか。一年に一度、誰にでも訪れる、奇跡の夜だからですよ。だからこそ、こうやって私は人助けをしようと思ったわけです。普段はこんな事絶対しませんからね、相当運がいいんですよ、貴方。それに普段の私を見ればあなたは……いやまあ、これはいいでしょう」


 黒ローブは若者に告げた。彼はその言葉を受けて、反射的にまた口を開く所だった。だが閉じた。


 あなたは本当に人間なのですか?


 改めて若者は黒ローブに目を向けた。黒い服。そして女。それしか分からない――若者と同じくらいの背丈に、黒い靴。全身がシーツに覆われているようだ。最初は怪しいとしか思わなかったそれが、今では何か超常めいた、人が触れてはならない神秘のような物を感じさせていた。


 そもそも術師とは格物学や舎密学の辺りから生まれた存在だ。自然に溢れる物質を元に元素に干渉して、一時的に物理法則に反発する力を作り出すか、あるいは強める存在。かつてはマナだとか魔力だとか言われていた抽象的な物を、科学的にまとめて数式に方程式、グラフなどの精密さに落とし込んだ学問が術学なのだ。だからこそ建築分野やダム建設など、工学や化学に関する分野で用いられ、果てはカスイなどの芸術にも応用される。魔女から脱却して科学の鎧を着こみ、論文で武装したのが術学者たちだ。それが本来あるべき術師の姿。


 だが、目の前にいる存在は、術師にしてはあまりにも異質で、もっと大きな――


「そのくらいに、しておきましょうか」


 術師が空気に凛と澄んだ声で言った。さっきと声色が異なり、音に新たな質が加わったようだった。読んだんだ、と彼は思った。目の前の存在ならば、人の心を読むことぐらいなんでもないに違いない。なぜなら術師の服を着込んではいるが、人でないからだ。


「私が何者かなんて、どうでもいいじゃないですか。私は術師で、水を弄って、それに風の成分を調べて、人の手助けをして、国からお金をもらう、そういう小さなありふれた存在なんです。あなたたちと同じ、一人でうろうろして迷ってる、そういう者なんです。それでいいでしょう」


 言葉に刺はなかったが、代わりに長槍のように確固としたものがあった。言葉が魂を持って身体に触れてくる事を若者は感じた。とぷりと背後で海の音がする。


「私は水に触れるのが好きなんです。粘ついたりさらさらとした感触が好きで、気分が落ち着くんです。そういう所に私は属しているんです。そのボトルも、私のそういう心から産まれました。断っておきますが毒などは入れておりませんので。そんなくだらない事をするぐらいなら溺れさせますよ。ま、これは私からのプレゼントということで」


 そうして術師は歩き出すと、ゆっくりと若者の横を通り過ぎた。彼は横を、それから海が広がる後ろを振り返った――誰もいなかった。音もしなかった。静かに波が揺れていた。


 彼はボトルをまた手にした。黄金のような水を見た。水神、と思った。水神が形を変えてやってきたのだ。そして彼は、今日が奇跡の夜だから宝を得た。この日でなければ死ぬか不具で終わっただろう。見ているうちに手が震えだしたので、最初はそれを海に投げ捨てようかと思った。そこでしかめっ面をしてレンズに写り、兄の手を触ろうともしない彼女の姿が浮かんで、思い直した。冷水を浴びたような感覚を思いながら、彼は一歩踏み出した。海はどこまでも広い。水はどこにでもある。彼女もそれと同じなのだ。





【姦し姦し酒二人】


 まさか昼間から数時間待つ羽目になるとは思わなかった。


 ブルーシートを敷き終わって四隅を荷物で固定すると、途端にすることがなくなる。ズボンは履いてきたが大の字で寝そべるのも抵抗があったので、彼女は真ん中辺りに座り込んだ。周囲を見回すと、他にも大勢の人たちがシートを広げたり、あるいは携帯用イスに座ったりしている。多くはもう発泡酒の蓋を開けて宴会を始めていた。彼女もできる事なら酒の一本や二本飲みたかったが、一緒に飲んでくれる人がいないのは寂しい。他の友だちが来るのは夕方近くで、あと二時間ほど待たなければならない。あーあ、と声に出してひっくり返る。太陽の日差しが異様に眩しくて暑くて恨めしい。帽子や飲料水があるので熱中症の心配はないけれど(そもそもこういうイベントでは、術師辺りのスタッフが無料で水を創りだしてくれる)、メイクが落ちてしまわないか心配になる。これくらいの暑さは予想していたのでナチュラル系でまとめた積りだが、それでも心配にはなるのだ。


 そもそもどうしてこんな時間から待つ羽目になったかと言えば、彼女が仲間同士のジャンケンで負けたからに他ならない。勝負事の弱さは生来だが、まさか十人近く集まった中でも負けるとは予想外だった。サークルには他に男もいるのだからそういう奴にやらせればいいのだが、交通整理のバイトやら勉強会がどうとかで忙しいらしい。太平楽なことだ。とりあえず手持ちの荷物をまとめてみるが、飲めそうなのは加工済みスポーツ飲料とビニール袋に発泡酒がいくつか。冷却ボックスのような重いものは、他の仲間が後で持ってくる手はずになっている。そして暑い。本当にする事がない。これなら電術ゲーム機持ってくれば良かった、と彼女は空を仰いだ。


 祝祭の最終日である今日は、天候にも恵まれて雲ひとつなかった。確然とした太陽が空の中で浮いており、白熱した光を人に投げかけてくる。だが他の場面であれば恵みであるそれも、今の彼女にはくそ暑いだけだ。帽子で顔を覆ってこのまま寝ようかと思ったが、落ちる汗と日差しがそれを許さない。辺りをうかがって、ストアで売っていた冷却シートを服をめくり脇の下にこっそり貼り付けた。もう少し周りを見てみると、やいのやいのと騒いでいた人たちの中で、ぼーっと突っ立っている人がいる事に気がついた。


 その人物はプレートらしきものを持っており、そこには幾つかコップが置かれている。――術師だ、と彼女は思った。多分コップの中身は熱中症対策としての特製水で、地区が無料で配布しているものだ。基本的に美味しくはないが、効果はある。黒ローブの人はあらかた配り終えてしまったのかすることもなく立ち尽くしていたが、彼女が手を上げているのを見ると、あせあせとシートの合間を縫って近づいてきた。


「お水、お一つでよろしいですか」


 慣れない足取りと手つきでコップを差し出す術師に、彼女は笑顔で頷いた。この人ぜんぜん汗かいてるように見えないなあ、と思った。


「その服、暑くないんですか?」


 彼女は聞いてみた。すると術師は自分の身体を見下ろして、あー、と言った。


「いや、すごく暑そうに見えるんですけど、汗とか掻いてないっぽいんで……」


「まあ、そういう体質なんです。ちゃんと水とか飲んでるから大丈夫ですよ。……えーと」


 立ち上がった術師だが、他に配る人が思いつかないらしい。周りはとっくに酒で出来上がっている人ばかりなので、そもそも話を聞かないかもしれない。参りましたねえ、と術師がボヤいた。そこで彼女は、術師さんが飲んでもいいんじゃないですか? と聞いてみると、それもそうですねえ、と術師が手元のコップをあおった。のんきそうだなあ、というのが第一印象だった。


「そうだ、術師さん。暇なら……座りません? ココ」


 彼女は自分のシートを示した。どうせ友人たちが来るまで時間は十分にある。


「ちょっとお話でも……どうですか? もちろん、仕事とかあるなら別ですけど」


「あー、そうですねえ……」と術師は堤防の向こう、そして彼女を交互に見た。少し悩んでいるようだったが、やがて


「じゃあ、時間もありますし、お言葉に甘えて」


「ノリいいですね! じゃどうぞ。私お酒でいいですよね? 喉乾いてるんですよ」


 術師に渡すと彼女はさっそく発泡酒を取り上げ、かんぱーい、と缶を合わせた。これくらいの勢いがなければ。術師も茶を飲み一息つく。


「そうだ、自己紹介まだでした。私、メヴァって言うんです。どうぞよろしく」


 酒の勢いもあって彼女は頭を下げた。術師もいえいえ、と頭を下げて、小さな声で自己紹介した。


「私は……あー、ミツリです。よろしくお願いします」


 半分ほどそれを聞かずに彼女は缶をもう一口。


「メヴァさんは、ご職業は何を?」


「私、学生なんですよー」


 さっそく酔いが回ってきたメヴァは上機嫌になっていた。この発泡酒は安い上に一口二口でハイになれるので愛飲していた。サークルの飲み会でもこれを使うから、一次会が大宴会になるのも珍しくない。それに朝方に吸ったアレの影響もある。


「あっちのー、川向うの大学ですよー。あと私二年生でぇ、そろそろ就職先とか論文とか考えなきゃいけないんですわー。あぁいい気分」


 そのままメヴァは酒を空にして、もう一本取り出す……が、今回はミツリに手渡した。というか、押し付けた。


「どうせだから飲みましょうよぉ。一本ぐらいバレませんて」


「いや、私……これからお仕事とかあるので」などぐにゃぐにゃ言い訳をするミツリから缶を取り上げると、プルタブを開けて再度手渡す。


「あの、私」


 口元の辺りまで持っていく。ぐぐぐ、と力強く。


「……頂きます」と、ミツリがちょっと口をつけたので、メヴァは思い切り缶を持ち上げた。


「んんー!」と呻く。これが飲み会なら顰蹙を買う所だが、止める人間が誰もいない。無理やり酒を流し込まれたミツリは苦しがっていたが、やがて一気にハイになった。


「おいしーですねぇこれ!」


「そうでしょー!?」あはははは、とメヴァが笑い、ミツリも笑った。次の酒をミツリに配ったメヴァは、自分でも酒を飲みだす。


「でもミツリさん、どうして術師の職業選んだんですかぁ?」


「はぁー職業ですかー」


 ミツリは酒をもう一口飲んで、ふぅと溜息をついた。テンションがやや下がったようだった。


「最近はこっちも世知辛いんですよお。いろんな奴が幅利かしてるし、私の専門分野けっこう限られてるんですよねー。だって水と祭りですもん。もう少し広げようと思えば広げられるんですが、そしたら道祖神並みに頑張らなきゃいけませんからぁ。でも徳積まないと級が上がらないんで、チマチマこういう仕事頑張ってるんですよぉ。あ、でもたまにあっち行けるんでその辺役得ですねー。楽しいし、ポッポ焼きおいしいし。でも殺すのも生かすのも私はどうでもいいんですけど、助けた方がポイント高いんですよねえ。最近は人間中心の世の中なんでしょうか」


「は? ……はぁはぁ、そうっすねえ」


 言ってる事がよく分からなくなってきたのだが、メヴァはとにかく頷いた。酒を飲むと訳がわからなくなるのは世の常で、そこに余計な茶々を入れると話がこじれてややこしくなる。勝手に喋らせておけば良いのだ。メヴァはもう一口飲む。友達の友達からもらったクスリの影響もあるせいか、細かい事が気にならない。遅効性だがエキセントリックな映像が期待できるナイスな逸品だ。副作用と言えば、吸ったら走行車に乗れない程度だ。確実に吐く。


「でも分かるなーその気持ち。私も自分にできる事とか、できない事とか何かなーってすごく悩んでるんですよお。私環境生物学専攻してるんですけどぉ、卒業したら国に仕えるかなーとか、それとも研究やって別の地区に行くか、悩んでますからあ。それにバイトにサークルに、やっぱ人間関係も疲れますから、毎日フラフラのヘロヘロですよぉ、分かりますこのしんどさ!?」


 メヴァが呂律を若干おかしくさせながら話すと、ミツリは頷いた。ハイにはなっているようだが、人の話は理解できるらしい。


「分かりますよー、その辛さ。嫌ですよねー不確かな日常って。そういう揺れ動く感じ、キツイ人にとってはキツイですもんねえ。だからいろいろ依存しちゃうし吸いたくなっちゃいますもんね。あと彼氏と別れたんでしょ?」


「そーなんですよぉ!」


 シートに拳を打ち付けメヴァはがなった。隣のシートから、お前ら元気いいなあ、と野次が飛んでくる。


「毎日毎日しんどいのに、その上彼氏が浮気ですよ!? マジ信じらんない、あいつ死ねばいいのに……その理由も酷くて、『お前悩みすぎ』とか言うんですよ! なんか私がいつも愚痴ってるって思われたみたいで、あーもー気分下がる、もう一本どうですか!?」


 メヴァが差し出すとミツリは受け取った。彼女もぐいと缶を呷って、空いた物を脇に置く。相当この人飲めるんだなーと、ややふらつく頭でメヴァは考えた。メヴァは更に一口飲むが、そうするとムカつきはより激しくなった。


「あーもー……まぁそんな訳で、今日はこの祝祭来たんすよ。パーッと騒ぎたくて。せっかくの祭りなんだから、騒がなきゃでしょ!?」


 メヴァが叫ぶと、周りからそうだそうだ、と掛け声が飛んだ。それを聞いてミツリがくすりと笑った。


「なんかおかしいんすか?」


「いや、本当にそうですよね」とミツリは言った。


「だって祭りなんだから……楽しまなきゃ。そうでした。一年に一回だけの、特別で不思議な夜なんですよね。今夜は。皆さん……皆さんが作る、静かで楽しいお祭。こういう風に、進んでいくんでしたよね。奇跡ばかり考えてて、なんか忘れてました。新鮮です」


「なぁにゴチャゴチャ言ってるんすか。飲みましょうよ。それいーっき! いーっき!」メヴァが手を叩くと、ミツリはそれに倣ってゴクゴク酒を飲んでいく。メヴァは他の酒を出そうと荷物を漁った。しかし見当たらない。どうやら在庫が底を尽きたらしい。


「あー……なんかすみません。お酒なくなったみたいです。買ってきましょうか?」


「いえ、それでしたらこちらをどうぞ」とミツリはコップを差し出した。さっきのプレートに載っていたものらしいが、匂いを嗅いでみると確かにお酒っぽい。飲んでみると確かにアルコールがあった。フルーツ系の甘み。


「あっれー……こんなんあるんすねぇ。でも、悪いなーこんなお酒いただいちゃって……すっごい酔い回るっすねー」


 ふわふわしているメヴァの前で、ミツリがにっこりと笑った。


「そうですか。じゃあ、そこの靴を下さい。あなたのです。良いですよね?」


「は? クツぅ? いいっすよー、あー……眠い……ミツリさん眠くないんすか」


「ええ。自然に溶けていっちゃうんですよ、アルコール。この靴高かったでしょうけど、ごめんなさいね。これのせいであなた事故起こしちゃうんです。橋を渡ってる時に靴が壊れてよろけて、ぶつかった目の前のお母さんも転んで、赤ちゃん川に落としちゃうんですよ。奇跡の夜にそんな事起きたら、祝祭の格が下がっちゃうんですよね。あれ、もう寝ました?」


 ミツリがふいふいと顔の前で手を振るが、メヴァは目を閉じて動かない。ミツリは彼女の掌を握って、水分と同化しているドラッグと余分なアルコールを吸い取り、蒸発させた。小さなパラソルも作ってやる。術師は身体のアルコールを外に逃がしながら立ち上がると、ついでに「ドラッグはやめといた方が良いですよ。四年後ぐらいに中毒症状が出て、大事故になるので」とメヴァの耳に入るよう囁いた。これでこの場での因果律の回収は終わった。プレートを抱えて創りだした特製飲料水が入ったコップを置くと、他に祝祭を台無しにしかねない可能性を備えた者を探すために、歩き始めた。会場は広い。人は多い。術師がやることはたくさんあった。


 そもそもミツリにとって人の生死や幸福などはそれほど意味を為さない。重要なのは己が支配する分野であり、つまりは祭りと水そのものとなるが、この場合は祭りを進行させる人間全体の価値観、あるいは集団が抱く感情などであった。こうした祝祭を長く続けさせるためには、人を長時間高揚させ、ムードを作らなければならない。それも彼らの幸福を保ちながらであるので、必然この時期は彼らに奉仕する事になる。とは言えミツリは普段彼らを溺死させたり昏睡させる側なので、今回こうしてあくせくと動き回るのはなかなかない機会だ。そして、こうした物の積み重ねによって、あっちへと行く事ができる。次元が異なり覆いが違う向こうに触れるのは新鮮で、気持よく、楽しい事だとミツリは認識していた。うまくいけば今夜入れるだろう。それ自体にも様々な規則はあるが、それらに自分を慣らす事も面白い。そういえば、と彼女は思った。人が集まり門も開いているせいかずいぶんと幽霊がこの場に集まっている。まさか人に憑依はしないだろうが、どこかで一つ処置した方が良いかもしれない。


 ミツリは夕暮れまで川べりを歩き続けた。






【ミラクルまたは最終便】
 殴られた所がもう腫れ上がっていた。頬は内出血のせいでぶっくりと膨らんで、歯が二本ほど抜けたのが分かった。道路に痰を吐くと一緒に血が混じっていた。さっきまで腹と顔面を殴られていたから、それも当然だろうと思った。辛いというよりも、身体の中の大事な物がごっそりと抜け落ちたようで寂しさがあった。折れてこそいないが、身体が軋む。ひたすらに、ただ走っていた。


 走る羽目になったきっかけは誰かの拳だった。多分お父さんだろう。テレビを見ていたので、少年がチャンネルを変えようとリモコンに触れた瞬間に殴られた。バチィと音がしたのは分かるが、次の瞬間にはソファに吹き飛ばされていた。これが角のあるテーブルじゃなくて良かったと後から思った。次はのしかかられて、腹を優先的に殴られた。顔だと虐待を疑われる、と前に言っていたのを思い出す(なのに最初は顔面を殴るあたり、杜撰だ)。少年は必死にもがいたが、誰かが手や足を押さえた。だから大人が本気で殴る力がお腹とか、胸とか、肩の辺りにものすごい勢いで叩きつけられた。内蔵がダメにならなくて良かった。既に涙を流す事は相手を激高させることになると気づいていたので、ひたすら黙っていた。一度、警察に言おうかと思った事があった。


 口が利ければなあ、と思う。


 声が出ないのはもともと障害があったらしかった。喉なのか脳なのかわからないけれど。赤ちゃんの時からずっと泣かないので、医者が気づいたらしい。だから少年はそういう障害がある人が通う学校に行っていたけれど、ここ二週間ほど行っていない。お父さんがコウジョウをやめた日からだ。そもそもお父さんはガキが大嫌いだったらしいが、お母さんが子どもの数を自慢したくて産んだらしかった。そのお母さんは一年ぐらい前にフラリと出て行って帰ってこない。暫く少年は涙を流していたが、三日経って無意味と気づいた。崇も最初はお母さんがいなくなって悲しくなったようだったけど、そのうち少年の耳を抓るのが楽しくなったみたいで、よく笑うようになった。


 橋の真ん中までたどり着くと、夜風が吹いて寒々しかった。浮いた月が水の中でもぽかりと浮いて綺麗だった。少年の背丈は、ようやく橋の欄干に首から上が出る程度だ。橋の下はなみなみと水が溜まっていて、この水を全部飲み干せる生き物はいるんだろうか、と考えた。なぜなら喉が乾いていたし、勝手に冷蔵庫を開けると頭を殴られるからだ。殴られ蹴り飛ばされた。まだ死んでいないのが奇跡だったが、そろそろ殺されると思った。


 きっかけは役所の人だった。


 一度、名刺を出してスーツを着た男と女が現れた事があった。少年と崇の生活に問題があるとか言っていて、お父さんは見たことのない服装で、見たことのないハンカチで頭を拭きながら答えていた。スーツ二人は崇と少年の体をチェックしたが、難しい顔をしていた。二人は部屋に入るよう言われていて、崇はゲーム機をいじっていた。少年が覗くと殴られたので、遠くで壁の隅から出てくる小虫を眺めていた。


 やがて二人が帰ってから、お父さんは子どもたちを居間に呼んだ。そして台所から包丁を出すと、ゴトリとテーブルの上に置いた。真面目な顔でこう言った。


「俺はもうじきタイホされるだろう。お前ら糞餓鬼を食わせていないからだ。糞ムカつくがこれが世間だ。俺が生きる事を許してくれない腐った世界だ。SF映画のように全員くたばれば良いがそうはならなかった。そこで復讐代わりに、そこらで何人か殺る事にした。まず手始めにお前らのうち一人殺す。どっちが死にたい」


 冗談だと思ったが、お父さんの顔は真剣そのもので嘘の雰囲気がなかった。崇も真顔で、まるでよくお父さんが借りてくるホラー映画に出てくる殺人鬼みたいな顔をしていた。崇はすぐに少年を指さした。少年はおそるおそる崇を指さそうとしたが、彼に蹴り飛ばされた。崇はずっと指し続けていた。お父さんの目はずっと少年を睨んでいた。少年は布団で身を隠そうとしたが無意味という事は承知していた。お父さんは崇を一度も見ようとしなかった。


「分かった」とお父さんは頷いて、包丁を片付けた。その日の夕食はカップラーメン三つだった。お前、多分一週間ぐらいしたら死ぬから、心の準備しとけよ。お父さんはラーメンを啜りながらニコリと笑った。鼻の上が全く動いていなかった。だから少年は、自分が近い未来に殺される事を知った。


 眼前の川の中で楽しそうにゴミが行き来しているのが見えた。一週間目の今日、少年は殴られた拍子に逃げ出した。外に出ると早足になって、走りだしていた。うぉ、うおお、と声にならない音声が迸っていた。どうして自分が殺されるのか分からなかったが、とにかく死ぬ。帰ったら崇の金属バットか包丁か、あるいはロープが待っているだろう。喉が裂けるかもしれない。野球ボールみたいにバットで殴られるかもしれない。崇はテレビを見ながらその音を聞くに違いない。やがて少年が死んでズタズタになったら、お父さんは人殺しの道具をリュックに入れて、駅かどこかに行くだろう。そして弱い人間から血祭りに上げていってタイホされ、テレビに出るのだ。崇はもしかしたら無事かもしれない。お母さんはどこか知らない国でそのニュースを見るかもしれない。


 だが最初に殺されるのは少年だ。


 ああああ、と少年は川に向かって叫んでいた。ああぁ、ぁぁああぁぁあ。車の排気ガスが声を覆い隠す。あまりにも理不尽過ぎた。あまりの厭さに涙すら出てこなかった。ただとにかく、この張り裂けそうな怒りを外に出してしまいたかった。先生は夏には海に行くものだと言った。祭りを見るものだと言ったし、スイカを食べるのだとも口にした。山でセミやチョウチョを採ったり、キンキンに冷えたコーラを飲む季節だ。秋にも、冬にも、そして春にもそういうものがある。自分はその全てを素通りして死ぬ。踏み潰される。


 ぃぁああ、と頭を思い切り掻いたが血が滲んだだけだった。橋。目の前に川。ただ眼前にあるのは死で逃れられない。どこにも逃げられないだろう。警察に説明する方法を彼は知らない。もう一度目を見開いて橋を見た。水がある。欄干をよじ登った。太くて大きいから、痩せた子ども一人ぐらいは楽に上がれた。背後で車が通る音がする。


 ここで死ねば楽になるだろうか?


 あっちの扉には拷問と書いてあったが、この扉にはそれよりは楽そうな溺死があった。夜だから誰も気づかない。飛び降りて潜って、水を飲めば――楽に死ねると思う。心臓の鼓動が強くなる。息が荒くなった。ここで水を飲めば良いのだ。ここで……


 飛び降りる時間は一瞬で、水に触れたのも一秒後だった。どぼん、と音がした。


 夢を見た。夢のようなものだ、と後に思った。水を打ち上げる世界が見えた。カスイと呼ばれる、花火のような水を打ち上げては面白がる夜空があった。するりと幕が変わって不思議な動物がいた。その動物は、かつての飼い主に会うために死後の世界から戻ってきた。暗転。水と土で町を作る世界だった。少年が見たことのない空間が、異次元が見えた。この橋によく似た橋の上に、たくさんの人たちがいた。まるで花火を見るように星を眺め、水の中で黄金がさまよっていた。一人の女の人が酔いつぶれて、仲間におんぶされていた。車の音がやけに静かなのは水を加工しているからだ。向こうの世界の水は生きていた。意思があり、人の身体に入り込んであれこれと考えていた。その水たちは自分たちの考えを代弁させなければ、と思った。人にうまく伝えるために。そのうち人のようなものができた。親しみやすい姿で、水を加工する人間たちに紛れていた。たくさんの人の考えが集まる祭りと共に凝縮されたそれは、たくさんの人の中を泳ぎまわっては意思を飲み干し、時に恵みの水だったり救いの手を差し伸べては川と水と祭りを守っていた。ただしそれには一年に一度という但し書きがついて、それ以外では洪水や溺死のように人や動物を飲み込んでいた。神とはそういう物だ。気まぐれで助け、気まぐれで殺す。ここはそういう存在がいる場所。世界に水の思考がほんの少し通じた所、少年の世界とは似て非なるもの。奇妙だけれど、面白みのある世界だった。さながら人形同士がダンスを踊るような、絵筆だけが自動的に絵画を作っていくのを眺めるような、そんな浮遊感と楽しさがそこにあった。少年はそこに潜り込みたいと思った。こんな糞と殺意と悪意しかない世界から逃げたくて、本能的に水が彩るお祭りのような世界に入りたいと、あるいは帰ってきたいと思ってしまったのだ。


 それはいけません、と誰かが言った。少年はこれがもう誰だか知っている。


 あなたの世界はあなたの世界。私達は私達でうまくやりますから、きちんとバランスを取らなくてはいけないんです。下手なことをして均衡を崩しては、全てがおじゃんになってしまいますので。


 ――でも僕は、あそこが嫌いなんです。あそこにいると息が詰まって、胃が痛くて、それにいつも誰かに殴られているんです。帰ったら今度こそ殺されます。お願いします、助けてください。僕は死にたくないんです。お父さんにバラバラにされたくないんです。


 そうではありません。これは人ではなく、世界の問題なんです。あなたたちの世界から私達は生まれたんです。主の世界から何かを招いてしまうと、私達はその重みで潰れてしまいます。ま、その割にこっちからよく遊びに行ってるんですけどね。でも感謝していますよ。あなたたちがいなければ、私達は生まれてこれませんでした。あなたたちが抱える概念と想いがなければ、私達の心は存在しないままだったでしょう。おかげでこちらではカスイを打ち上げ、水の精製で命を永らえ、水に包まれて生きることができるのですから。だから今日は、その御礼をあなたに差し上げる積りです。感謝してくださいよ、水神の贈り物なんて滅多に受け取れないのですから。ちょうどこちらは、一年に一度の摩訶不思議な夜ですし。そういう日には、素敵だったり不思議な事が起こるわけですよ。この日だけは、誰もが救われる権利を持つんです。別の世界に住むあなたでさえ。


 ――じゃあ、僕はそちらに世界には入れないんですか。このまま死んじゃうんですか?


 入れませんが、こちらから奇跡を授けます。それはあなたにとって助けになるはずです。ですから、どうぞ自信を持って。さあ、こちらの星が消え始めました。もう祝祭は終わりです。二つの世界が繋がる時間も終わって、もう離れ離れになってしまいます。最後に自己紹介を。私はミツリ。水と祭りを司る世界の一因です。あなたは?


 ――僕は、僕は「と、ぁ?」


 それだけ言えればあとは大丈夫でしょう。私達の夜も、あなたの夜も直に終わります。そうしたら朝が来ますから、あなたはあなたの朝を生きるのです。大丈夫、それだけの力がありますから。


「消えちゃうの、僕は?」


 いいえ、戻るだけです。水に関する事でしたら、私は時を戻せますから。さあ、お帰りなさい。あなたの世界へ。



 夜中のうちに父親は現行犯逮捕された。少年の通報を受けた警察官が訪問した際、包丁を振り回して暴れたためである。息子の一人は少年とともに保護されたが、知的障害の疑いがあるため後に院に預けられる事が予想された。
 橋の上に一人佇んでいた少年を見つけたのは、見回りをしていた警察官だ。警察官が住所や名前などを尋ねると、少年は一声発し、ついで泣きながらとめどなく自分に関する事を喋り始めた。最寄りの警察署で保護された少年はそこで食べ、眠り、やがて目を覚ました時には憑き物が落ちた顔で空を眺めるようになっていた。


 やがて父親が逮捕され、実兄にも虐待紛いの行為を受けていた少年は、入院の後にホームへ送られる事となった。両親がいない子どもや、不幸な出来事を抱えた幼いヒトが集まる場所だ。車に乗る直前、少年は川を見たい、と言い出した。以前は喋れなかったという割には滑らかな発音だった。運転するスタッフは時間に余裕もあるので、途中で車を橋の近くに止めた。少年はそこからしばらく橋を見ていたが、やがて川の真ん中に街が見える、と言い出した。スタッフはそれを本気に取らなかったが、少年が真剣な顔つきで訴えるため、仕方なく橋の下を覗いてみた。


 見始めて十秒ほどしたが、何も見えなかった。スタッフは少年がからかったのかと思ったが、次の瞬間、ゆらりと町並みが、道や車がぼんやりと写った。驚いた彼は目をこすったが、その瞬間にもう向こうの景色は消えてしまっていた。スタッフは少年を見やったが、彼はいつまでも川の中心を楽しげに眺めていた。ゆらゆらと揺れる川の流れを、そこに存在するものを見通すようにしていた。


《終わり》
復路鵜
2014年08月11日(月) 21時54分43秒 公開
■この作品の著作権は復路鵜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
久方ぶりに書いたオリジナル作品です。
一つの街、とある祝祭の日を舞台に繰り広げられる物語をひとまとめにしました。
ちなみに設定としては、五つ目の舞台が現代となっており、それまでは皮一枚隔てた(あるいは川一つ)異世界という事となっております。おそらく情勢はそんなに暗くないです。
お楽しみいただけたのでしたら幸いです。

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